第16話

 そして、翌日の日の高いうちに孫次郎はやってきた。


「何かわかったかね」


 顔が引きつりそうになるのを必死で堪えているような、複雑な顔つきであった。他の客もいることだ。千世は孫次郎を奥に通し、そこで話すことにした。


 居間であり、千世とみつが寝起きしている部屋で孫次郎と向かい合う。みつが茶を淹れてくれた。

 言いにくい話だが、蓮二がああ言ったのならば嘘ではないはずだ。これを伝えるのは主である千世の役目だろう。


「お内儀のお恵さんはもともと網打場の方で商売をされていたのですね?」


 孫次郎は腕を組み、眉を跳ね上げた。


「ああ、そうだ」


 千世はゆっくりとうなずいた。みつはそんな千世の後方に座して見守っている。


「これは昨日のことなのですが、お恵さんは、網打場の方で男の人と待ち合わせて、それから蛤町の辺りまで二人で歩き、そのあと〈こい屋〉という船宿の二階で一時(約二時間)ほど過ごして出てきたそうです。うちの者が確かに見たとのことで」


 それを聞くと、孫次郎の唇は青ざめ、わなわなと震えていた。組んでいた手が膝の上に落ち、そこで硬い拳になった。


 そうだろう、とあたりをつけてはいても、事実を他人の口から聞くのはまた嫌なことであったのかもしれない。善良な兄が気の毒だと思うのだろう。

 その顔色は恵への怒りでどす黒く変貌していった。


「そうか――。やはりそうだったか。あの女は忘恩の畜生だ。このことを兄が知れば、さすがに二度と家の敷居を跨がせることもないはずだ」


 ぶつぶつと独り言つ。そうして、孫次郎は一度グッと強く目を瞑ると、まぶたを持ち上げた際には何事もなかったかのように穏やかな顔つきに変わった。

 そのことに千世は少なからず驚いたけれど、思えば孫次郎は大店の番頭なのである。自分の思いを殺し、相手に合わせて振る舞うことが常であるのだ。


「助かったよ。ありがとう」


 そう言って、紙入れから二朱を畳の上に置いた。


「十分な働きをしてくれた礼金だ。遠慮なく受け取ってほしい」

「いえ、すでに頂いていることですし」

「いいんだ。本当に助かった。また何かあったらよろしく頼む」


 孫次郎はサッとこなれた所作で立ち上がると、部屋を後にした。出されたものを突き返すのは失礼に当たる。千世も強くは言えず、表でみつと仙吉と一緒に孫次郎を見送った。


 恵が月見堂で着物と簪を借りたことは孫次郎には告げなかった。着物を着換えて周到であったというだけの話であり、それを伏せたままでも問題はない。孫次郎が客であるのと同じように、恵も月見堂の客なのである。そこだけはこちらからは告げない。


 ――しばらく紅梅屋は荒れるのだろう。

 そう思ったけれど、皆で客を見送りに外に出た後、権六は客の背を眺めながら千世に向けてつぶやいた。


「あの番頭さんはお兄さん思いです。本当に。けれど、どんなに心配して心から忠告したとしても、相手が思い留まってくれるかどうかは別です。それが番頭さんにはとても苦しいことだと思いますが」


 あの女はろくでもない疫病神だ、と孫次郎が兄に言ったとする。その時、吉右衛門はどうするだろうか。

 自分の目が曇っていたと孫次郎に感謝するだろうか。

 それとも、孫次郎の言葉を信じず、恵の肩を持つだろうか。


 もし、そうなったとしたら、孫次郎は兄を見放すこともあるかもしれない。心配の分だけ裏切られたような心地がするに違いない。

 千世はそうならないことを祈りたかった。


 けれど、千世たちが関わるのはここまでである。手を貸すことを生業としていても、どこまでも割って入れるわけではない。所詮は他人なのだ。もう少し手を貸したいと思っても、相手が望まなければそれは無理だ。


 こういう時、もどかしさを抱えるけれど、この一件にこだわっているわけにはいかないのだ。仕事は次々にやってくる。すっきりせずとも割りきっていかねばならない。


 店に戻ろうとした時、権六が困った顔をして蔵の方をちらちらと見遣っていた。


「千世さま、迅之介さまは裏手で素振りをされております。お声をかけて差し上げては?」


 妙な気を回された。しかし、千世もそれをしようと考えていたので、ここは素直にうなずいた。

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