第17話
裏手の戸を開けると、ヒュ、ヒュ、と断続的な音が聞こえた。
木刀を構えた際の立ち姿が、縦に線を引いたように整っている。素早く振り下ろされる木刀の動きを、千世はぼんやりと戸口から見つめた。
道場にはあまり通わなくなっているけれど、それでも迅之介は鍛錬を怠らない。剣術こそが己の最大の長所であると思っている節がある。
迅之介は千世に気づくと素振りをやめた。軽く滲んでいた汗を手の甲で拭う。
「どうした?」
どう声をかけようか迷っていた千世を、迅之介は不思議そうに見ている。千世は早く何かを言わねばと思い、口を開いた。
「孫次郎さんにお内儀さんのお話をしました。納得して頂けたので、この件はこれでおしまいです。迅之介さまにもお手数をおかけしたことですから、私からもお礼を申さねばなりませんね。ええと、何か召し上がりたいものはございませんか?」
奉公人ではない迅之介だから、ありがとうと言うだけで済ますのも気が引ける。せめて迅之介の好物を用意しよう。千世ができることなどそれくらいである。
けれど、迅之介は特に表情も変えずに言った。
「気にせずともよい。大したことはしておらぬ」
その言い草に、あれ、と少しの引っ掛かりを覚える。
今回のことに関しては、一ノ手(一番手柄)は蓮二かもしれない。迅之介もそう考えているのだろう。
それでも、迅之介にも骨を折ってもらったと千世は感じている。
迅之介が蓮二のことを好ましくは思っていないのはわかっているけれど、おかしなものだ。
武家の次男で、剣術の腕が立ち、若くて男ぶりもよい。そんな迅之介が、あの程度のことで蓮二に負けたような気分になるのだろうか。
有りのままに生きる蓮二のような男を、迅之介は否定し、それでもどこかで羨んでいるのかもしれない。
それを感じたからか、千世は思わず言ってしまった。
「――私は、小さな頃から迅之介さまのようになりたいと思っておりました」
迅之介の動きがぴたりと止まる。それでも千世は続けた。
「父上は、私のような娘ではなく、迅之介さまのような息子がほしかったのでございます。けれど、私は息子にはなれません」
自分から口にしたくせに、後悔した。
こんなことはずっと、この胸の奥底に押し込めておけばよかったのだ。
家を守ることだけを考えて生き、子を成し、育てる。それをするには、千世には足りないものが多かった。千世は自分を少しも認めてくれなかった父に従順にはなれない。
迅之介はそんな千世の言葉をゆっくりと呑み込んだようだった。
「千世が俺にならずとも、俺が千世のそばにいればそれでよいのではないのか?」
「それは違います」
「どう違う?」
「どうって――」
上手く言葉にできない千世に、迅之介は苦笑した。
「子供だな、千世は」
「私はこの店の主でございます。子供ではございませんっ」
己の感情を持て余してばかりいる千世は、迅之介が言うように子供なのだろう。わかっているからこそ認めたくはない。落ち着いた大人であれば、素直に迅之介と家を守っていたはずなのだ。
それでも、迅之介は怒るでもなく照れ臭そうにつぶやいた。
「まあ、俺も似たようなものか」
「え?」
「あの蓮二だが」
「はい」
「ああいう男は信用できぬ」
「そ、そんなことは――」
「何より、千世に馴れ馴れしい」
言いにくそうに何を言うのかと思えば。
あと――と、まだいくつか述べられたが、千世は体中がむず痒く、ろくに耳に入ってこなかった。
迅之介が蓮二を気に入らないのは、千世の近くにいる若い男だからと、まさかただそれだけのことだったりするのだろうか。いつまで許嫁のつもりでいるのかと言いたくなる。
ただ、その気持ちが重たくはあるのに、心底嫌なのかと問われると、それもよくわからない。ほんの少しくらいは嬉しくもあるのかもしれない。
そんな心は認められないけれど。
『――千世、何を泣いておる?』
『泣いてなどおりませんっ』
あれは、迅之介と許嫁になって一年ほど経とうかというところだった。
千世は、迅之介が来たのを知りながら出迎えなかった。庭の松の木の根元でしゃがみ込んで隠れてやり過ごそうとしたのだ。
それというのも、父のせいだ。
父はいつも、迅之介を褒めた。いつもいつも、迅之介だけを。
『迅之介殿の稽古を見せてもらった。あの年で大したものだ。言動も大人びておるし、申し分ない。千世、おぬしは果報者だ』
千世は父に褒められた覚えなどない。それどころか、今までこんなふうに語りかけてくることすらなかったように思う。急に口数が増えた。けれど、父の話は迅之介の話題ばかりだ。
『父上、私も剣術を習ってみとうございます』
剣術ができるから褒められるのであれば、千世も剣を握ってみたい。もしかすると、才覚があるかもしれない。迅之介よりも強くなれるかもしれない。
しかし、父は耳を疑ったようだった。子供の浅はかな言動だと撥ねつける。
この時、嬉しげに見えた父の顔が急に曇ったのだ。千世にはそんなつもりはなかったのに、父を不快にさせてしまったらしい。
そのことに千世は深く傷ついた。しかし、その傷にすら父は気づかない。
『女子が何を言うか。そのようなことは二度と申す出ないぞ。いくら家つきとはいえ、跳ねっ返りは要らぬと縁組が壊れてしまうではないか』
眉間に皺を寄せ、くどくどと叱る。
――何を言えば父は気に入るのだろう。千世を褒めるのだろう。
千世という娘でよかったと認めてくれるのはいつのことなのか。
迅之介が現れてからはますます、千世は迅之介をこの家に繋ぎ止めておくためだけの値打ちしかないような気分になった。この家は千世の家であるはずが、千世の方が重要ではないのだ。
父は、千世という娘ではなく、迅之介のような息子を求めていた。
家を継げない女子には、息子ほどの執着を持たない。
そんなことはずっと前から知っていて、わかっていた。けれど、時折、もしかするとという淡い気持ちを抱いては打ち砕かれる。
幾たびそれを繰り返せば己は学ぶのだろう。諦められるのだろう。
自分の愚かしさと父の酷薄さに傷ついて隠れるなど、恥ずかしいだけである。母はそんな千世に気づいていて、いつも何も問わない。そっと包み込んで慰めてくれる。
その母もこのところは床に伏しがちなのだ。それもあって、千世は父の何気ないひと言に傷ついてしまうのかもしれない。
迅之介は、隠れている千世を容易く見つけてしまった。迅之介のせいではないとしても、顔を見たくないのに。
泣きたくはあったけれど、泣かなかった。涙は堪えていた。
そんな千世の傍らに、迅之介は座り込んだ。袴が汚れるのを厭わず、地べたに座り込む。
しかし、何かを言うわけではなかった。ただそこにいるだけだ。息をしているかの差はあれど、そこにある松の木と何ら変わりない。
何がしたいのかわからない。あっちへ行けばいいと思うけれど、これは迅之介なりの慰め方なのだろうか。置き物のようにしてそこにいるだけのことが――。
余計なことは言われたくない千世の心を、迅之介なりに感じ取ってくれている。千世の顔も見ないで膝に顔を埋めていた。
それは、千世が迅之介の顔を見たくないと思ったからで、それが伝わったのだとしたら、さすがに申し訳ないような気分になった。
そんな時、ふと迅之介が顔を上げた。
『千世、これを』
急に何かと思えば、迅之介は千世に石ころを手渡した。本当に、ただの石ころである。
『猫に見えぬか?』
『え?』
『違う、逆さだ』
と、迅之介は千世に寄り添って石の向きを変えさせる。言われてみれば、猫が丸くなっているように見えなくはない――かもしれない。
『そう申されますと、なんとなく――』
千世がぼそりと答えると、迅之介は、ん、と言って笑った。
この石が猫に見えたからなんだというのだ。千世にはどうでもいいことでしかない。
そのばずが、どういうわけか、そのどうでもいいことが気になってしまった。
『でも、猫よりも餅みたいです』
『いや、猫だろう』
『餅でもよいでしょう?』
猫か餅か、そんなことを延々と言い合った。なんとしても迅之介を折れさせたくなっていた。そんな間に千世の涙は引っ込んでいて、それが迅之介の思惑通りだったのかは知らない。
けれど――。
千世が実家から厳選して持ち出した荷物の中に、ただの石ころが紛れていたということは誰にも話していない秘め事である。
【 弐❖女の謎 ―了― 】
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