第37話

 店に戻るなり、千世は急いで帳面をめくった。その勢いにみつと権六が驚いている。


「茂助さんの長屋はどこだったかしら? 春先から通い始めてくだすったお客さまよ」


 すると、みつが先になって答えてくれた。


仁兵衛にへえ長屋です。大和町の。茂助さんがどうなさいました?」

「溺れて亡くなったのよ。それも、茂助さんは紅梅屋のお恵さんの昔馴染みらしくて」


 権六と仙吉が、ええっと声を張り上げた。蓮二はうるさそうに顔をしかめる。


「俺が長屋までひとっ走りしてきてやるよ」

「私も行くわ」


 千世が言うと、来なくていいという顔をされたが、じっと待っていることはできそうにない。千世はうろたえる奉公人たちを置いて蓮二と仁兵衛長屋へ向かった。



 長屋の木戸を潜ると、まだ茂助の死を知らない長屋の女たちはのんびりと話し込んでいた。もしかすると、あの土左衛門どざえもんの身元がまだ知られていないのかもしれない。

 千世はそのうちの一人に話しかける。


「あら、月見堂の」


 この長屋の住人も月見堂に来ることがある。千世の顔も見知っていた。


「あの、ここ最近で、茂助さんを訪ねてきたお人はいらっしゃいませんか?」


 すると、女たちは顔を見合わせた。


「茂助さんは越してきて間もないから、ほとんどいないよ。でも、一度だけお店者たなものっぽい人が来たね」

「懐かしそうに話されていましたか?」


 十五年前に深川にいた時の知り合いだろうか。それならわかる。

 しかし、女は首をかしげた。


「いいや、多分そうじゃないね。声を潜めて話していたし、はっきりとは聞こえなかったけど、話が弾んでいるふうじゃなかったから」

「そのお店者はどこの店の人だったかわかりますか?」

「屋号が入ったものは身につけていなかったし、知らないよ。後で茂助さんにもそれとなく訊いてみたんだけどさ、上手いことはぐらかされたね。小柄だけど物腰の柔らかい感じでさ、大方、茂助さんがツケを溜め込んだってところだろうね」


 そう言って笑っていた。本当にその程度のことだったらよかったのに。


 紅梅屋吉右衛門が恵と切れるように、孫次郎に金子を持たせて訪ねさせたのかもしれない。

 ――その後、茂助は川に浮かんだ。


 誰よりも事情を知っているのは、間違いなく恵だ。

 千世は蓮二と顔を見合わせてうなずいた。



 その足で紅梅屋へ向かうが、店に立たない恵を捕まえるのは難しい。

 千世は以前と変わりなく客でごった返す店内に入ると、孫次郎を見つけた。孫次郎は千世に気づき、それとなく近寄ってくる。


「おや、月見堂さん。今日はどうしたんだい?」


 自分が何も頼んでいないのだから、扇を買い求めに来たと思ったのだろうか。

 あれから吉右衛門と孫次郎の仲がどうなったのかはわからないが、この様子だと仲違いはしていないらしい。

 千世は小声でささやく。


「お内儀さんは今日、どちらに?」


 すると、孫次郎の目が僅かに冷たくなった。しかし、すぐにそれを隠して微笑みを浮かべる。


「さあ。今日も出かけていていないよ」


 頼んでいない時は探ってくれるなと言いたいようだ。それでも千世はあえて訊ねた。


「茂助さんが亡くなりました」


 この時、孫次郎は目を瞬かせた。その驚きは、千世の口から茂助の名が出たことによるのではない。意味がわからないという戸惑いに見えた。


 しかし、見えただけかもしれない。そう見えるように装っただけだとも考えられる。孫次郎ならそれくらいできるだろう。


「誰だい、それは?」


 ――わからない。

 この男が嘘つきなのか、正直者なのかが。

 少なくとも、若輩の千世よりは何枚も上手だろう。


「いえ、すみません。ここで申し上げることではありませんでした」


 千世は困惑する孫次郎に背を向けて店を出た。

 蓮二がいつになく真剣な顔つきをして紅梅屋を眺めていた。


「お恵さん、家にいないらしいの」


 すると、蓮二はまた嫌なことを言う。


「痴情のもつれで茂助を川に突き飛ばして逃げたんだったら話が早ぇのにな」

「やめなさい」


 千世は疲れを感じてため息をついた。

 恵がいないのなら事情も訊けない。一度月見堂に戻るしかなさそうだ。

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