第36話

 ときに会えたので、千世はこのまま帰ろうかと思った。丁度その時、長屋から佐藤の妻が出てきた。ときは泣いていた顔を見られたくないらしく、軽く頭を下げて行ってしまった。

 そんな背中を見送りつつ、佐藤の妻は煮豆の入った鉢を手に嘆息する。


「あら、千世さま。おときちゃんに会いにいらしたのですね。どうにも近頃気落ちしていましたから」

「長屋を離れるのがつらいそうです」


 佐藤の妻はうぅん、と唸った。


「私たちもおときちゃんが去るのは寂しいですけれど、ここにいたら先方に嫁ぐよりも苦労が多いかもしれませんし」


 長屋暮らしでは、それほど稼ぎのある家はない。皆、日々の暮らしで精一杯である。文芝堂に嫁いだ方が金には困らずにいられるのは確かだ。

 それはそうと、と佐藤の妻は言った。


「今日は保科さまはご一緒ではないのですね」

「ええ、まあ――」


 どう言っていいものか困っていると、佐藤の妻はころころと笑った。


「保科さまが仰っていましたよ。千世さまとは子供の頃からのつき合いだけれど、いくつになっても女心はわからぬと」


 一体なんの話をしていたのだと訊きたいようで訊けない。千世はハハ、と乾いた笑いを漏らした。

 そんな千世に、佐藤の妻は優しい目をした。


「どうすれば嫌われずに済むのだろうと仰っていて、驚いてしまいました」

「えっ」


 迅之介がそんなことを佐藤のところで言ってたとは。千世が思わずあんぐりと口を開けると、佐藤の妻はそれが可笑しかったのか、また笑った。


「どうして嫌われているなどと思うのでしょう。ねえ、千世さま?」

「それは――」


 千世が少しも素直ではないからだ。

 顔ばかりか耳まで熱くなった。今すぐ逃げ帰りたい心境である。

 それでも、佐藤の妻は続ける。


「女同士でしたら、すぐにわかりますのにね」


 何が顔に表れていたのかと、千世は己の顔を両手で包み込んだ。佐藤の妻はにこにこと笑っている。


「よい殿御に望まれて、千世さまはお幸せですよ。でも、時々は態度で示していないと、こんな誤解を受けてしまうのですから」

「そ、それは、その」

「では、私はこれで」


 と、佐藤の妻は鉢を軽く持ち上げてから去った。近所に裾分けをしに行くところだったのだろう。


 帰ろう、と千世がきびすを返すと、ふと長屋の前の通りを男女が親しげに寄り添って歩いていた。若い男女ではない。男は四十手前ほど、女は三十を過ぎた頃。しかし、なんとなく夫婦には見えなかった。


 女がふと長屋を気にするように目を向ける。その時、千世もその女の顔をはっきりと見た。

 見覚えがあったのだ。女の顔にも、やたら縞の着物にも。思わず声を上げそうだったけれど、千世はとっさに顔を背けた。


 あれは、紅梅屋の内儀である恵だ。隣の男は遊女だった頃の馴染みの客だろうか。顔が見えない。

 恵が変わらずに月見堂で借りた着物を着て男と会っているところを見ると、孫次郎は兄に何も告げなかったのか。それとも、告げたけれど相手にされなかったのか。


 恵が紅梅屋から放り出されたようには見えなかった。相変わらず、紅や白粉は上等のものである。

 千世が立ち入ることではないが、孫次郎の悔しそうな顔が思い浮かんで、少し切なくなる。


 千世は帰り道、色々なことを考えながら戻った。

 ねえ、と語りかけても猫は相槌を打ってはくれなかった。



     ❖



 ――十五年前。

 その歳月との関りを思い出したのは、男の死に顔を見た時だった。


「ほら、どいたどいた。野次馬は引っ込んでなっ」


 八丁堀の同心が見物人を十手で追い払いながら声を荒らげている。

 川縁に上がった仏には茣蓙がかけられていて、同心がめくるまで顔は見えなかった。

 今朝、溺死した遺体が上がったと仲町でも騒ぎになったのだ。仏は男だという。


 たったそれだけのことで千世は驚いて飛び出してしまった。それを珍しく居合わせた蓮二が追いかけてきた。


 溺れ死んだ顔は青白く膨れていたが、間違っても迅之介ではない。

 若いとも侍だとも言われていないのに、どうして迅之介が溺死したなどと思い込んだのだろうかと、後になってみるとよくわからない。


 ほっと息をついたのも束の間、千世は愕然とした。その仏が誰だか知っていたのだ。

 思わず両手で口を覆って震えていると、まさかの言葉が蓮二の口からも零れる。


「こいつぁ参ったな。あの男、紅梅屋のお内儀の情夫だ」

「そ、そんなっ」


 耳を疑った。この男は――。


「このお人は茂助さん。うちのお客さまよ」


 十五年ぶりに深川に帰ってきたと言っていた。

 そして、茂助は恵の情夫だという。茂助が深川に帰ってきたのは春先だ。それならば、その時すでに恵は紅梅屋の内儀である。

 最近知り合ったと考えるよりも、十五年前からの馴染みであったと考えられる。


 二人して連れ立って、昨日も狸長屋の辺りにいた。

 茂助と恵、二人の年頃は、ときの親として丁度合う。

 似ていないし、まさかとは思うけれど、あの恵がときの母親なのか。


 この場ではさすがに蓮二もふざけなかった。真面目な顔をして言う。


「茂助とやらはどうして死んだんだろうな?」


 殴られたような傷もないことだから、酔っぱらって足を踏み外したように思う。それ以外に何があるのだろう。


「ど、どういうこと?」

「いや――例えば、紅梅屋のお内儀が別れ話を切り出したもんだから、不義密通をネタに脅したとか」

「殺されたって言いたいの?」


 蓮二があまりに物騒なことを言うから、千世の震えは止まるどころかひどくなった。それでも蓮二はやめない。


「まあ、旦那は知ってるんだから、ばらされて困るのは世間にか。商売に関わるしな」


 これは殺しで、口封じだと蓮二は疑っているのだろうか。

 千世たちが知っていることを同心に伝えるべきかと考えたが、そのためには紅梅屋の事情を話さないわけにはいかなかった。それを孫次郎に断らずに口外していいものかわからない。

 そして、もし茂助と恵がときの両親だとしたら――。

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