第35話
千世は狸長屋に顔を出すことにした。
ときがどうしているのか気になり、久しぶりに会いに行こうと思ったのだ。佐藤や太助たちも、ときの親は見つかるのかとやきもきしながら待っているかもしれない。
一応話だけはしておくべきだろう。
みつと権六のどちらかを連れていってしまうと商いに差し障る。
すぐそこまでだ。千世は一人で行くことにした。
「仙吉をお連れください」
みつが心配そうに言った。
しかし、仙吉はこれといって頼りにならない。むしろ、千世の方が守ってやらなくてはならないほどだ。
「そんなに遠くないし、平気よ」
「いや、しかし――」
権六も眉を下げている。日の高いうちにすぐそこまで行くだけなのに、心配のしすぎだと思う。
「おいら、千世さまと出かけます」
張りきって仙吉は言うけれど、その仙吉がすべきである仕事が残されてしまう。千世はきっぱりと断った。
「駄目よ。仕事が山積みでしょう?」
えぇ、とぼやいて仙吉は口を尖らせるが、千世は構わず三和土で履物を履いた。
困った権六が最後に奥の手を使った。
「よし、いい子だ。千世さまを頼む」
野良猫である。黒い野良猫はにゃあと鳴いて千世の足元にまとわりついた。
迅之介に比べると、随分可愛らしい用心棒であるが、破落戸を退けた勇猛さもある。千世は猫の頭を撫でようとしたが、さらりと躱された。どうあっても権六以外にはなびかない。
千世が歩き出すと、黒猫は少し離れて後をつけてくる。権六の言いつけは守りたいらしい。なんとも不思議な気分で千世は狸長屋へ向かった。
足を向ければ近いのだが、このところは遠ざかっていた。急に迅之介が来なくなった理由を訊ねられたくなかったせいかもしれない。
千世はまず、表店の魚屋へ顔を出した。猫がどうするか気になったが、飛びついて来なかった。
「おお、お千世さんじゃありやせんか。お元気そうで」
しゃがみ込んで魚を捌いていた友蔵が千世を見上げ、にこにこと笑みを浮かべた。
「友蔵さんも。お久しぶりです」
友蔵のそばには女房らしき恰幅のいい女がいた。
「ああ、このお人が月見堂さんの。聞いていた通りの別嬪さんだねぇ」
嫌味でもなくそう言ってくれた。太助の窮地を救ってくれたと思うからこその好意だろう。
「太助さんは?」
姿が見当たらなかった。友蔵が苦笑する。
「ああ、天秤棒担いで振り売りに」
あの大人しい太助が声を張り上げて売り歩けるのかと思ったが、そこは商いと割りきり、気張っているのかもしれない。
「そうでしたか。お元気ならいいんです」
すると、友蔵夫婦は顔を見合わせた。
「元気どころか、腑抜けでさぁ」
意中のときが嫁ぐのだから、それも仕方がない。よくないことを言ったと千世は恥じたものの、女房はそんな千世に向かって大きく手を振った。
「おときちゃんは長屋皆の子供みたいなもんですからね。うちの太助のところに嫁いで来てくれたらって思ってましたけど、そうじゃなくてもあの子には幸せになってもらいたいんです」
「おとき坊の親のこと、なんかわかりやしたか?」
千世は心苦しいながらにかぶりを振った。友蔵と女房は、落胆しつつもそれは当然だと受け止めていた。
栄助が言ったことはとても告げられない。
「そりゃあまあ、かなり昔のことなんで仕方ねぇかと」
友蔵は魚の血のついた手を手拭で拭きつつ立ち上がる。女房は優しい目をして言った。
「おときちゃんも少ぅししんみりしているようだから、お千世さんも声をかけてあげてくださいな」
「そうなのですか?」
「ええ。嫁ぐ前はあんなもんですよ」
嫁いだことのない千世にはわからないけれど、あんなものらしい。
「慣れ親しんだところを離れるんですから、嬉しい半面、不安なんでしょう」
千世が仲町へ越してくる時は、権六とみつがいてくれた。先代のしなが受け入れてくれたのだから、取り分けて不安だとは感じなかったかもしれない。それがたった一人であったら、今のときの不安を感じ取れただろうか。
「そうですね、わかりました。おときさんの顔を見てきますね」
そう言って、千世は二人と別れて裏店の方へ回り込んだ。
振り向くと、黒猫がいる。頼もしい限りであるが、これといって危機はない。
まず大家の惣兵衛のところに行こうとしたが、その前に井戸のそばでときと会った。
「あら、お千世さん」
ふわりと顔を綻ばせたが、以前月見堂に来た時よりも輝きが鈍っているように見えた。あの時は本当に幸せそうだったのだ。それが今は不安に揺れているのが見て取れる。
「ご無沙汰していてごめんなさいね。おときさんももうすぐ祝言ですもの。そうしたら、ここに来ても会えなくなってしまうし、今のうちにもっと来なくちゃいけないわね」
何気なく言ったただそれだけのことに、ときは目を潤ませた。千世の方が驚いてしまう。
「ご、ごめんなさい。私、何か余計なことを――」
すると、ときは顔を両手で覆いながら首を振った。
「いえ、お千世さんは何も。あたしがおかしいんです」
千世はときに近づき、震える肩にそっと触れた。
「お嫁に行くのが不安なのね」
顔を覆っている手の隙間から、ときの小さな声が零れる。
「それもあります。でも、それよりももっと――」
その後は、かすれて聞こえなかった。千世がさらに耳を傾けると、ときは嗚咽を堪えながら言った。
「お嫁に行くって決まった時は、嬉しいと思ったんです。でも、この長屋から出ていくのが、こんなにつらいなんて。あたし、もう、どうしていいか――」
捨て子のときを、この長屋の皆は大事に育ててくれた。ときはここに捨てられていたからこそ、今まで生きてこられたのだ。
この長屋から離れ難いと、離れる日が迫るにつれて思うようになったのだろう。
しかし、この長屋に残って、それがときにとって最良なのかどうか千世にはわからない。寂しさを堪えて巣立ったからこそ、つかめる幸せがあるかもしれない。
千世から言えることはそう多くはなかった。ただ、ときには後悔してほしくない。
「ねえ、おときさん。私が武家の出だって知っている?」
ときはこくりとうなずいた。顔を上げた目元が赤い。
「はい。噂でお聞きしました」
「そう。時々思うの。あのまま家を出ず、許嫁を婿に迎えて家にいたらどうだったのかって」
父とのわだかまりは消えなかった。それでも、家は父と千世だけのものではない。千世がそこにこだわっているのは馬鹿げたことだ。
迅之介が嫌だったわけではない。素直に迅之介の妻になれば、二人で家を盛り立てていけただろうかと考える。そこには違った喜びがあったかもしれない。
けれど、千世はあそこを飛び出したかったのだ。違う暮らしがしたかった。
そうした思いが芽生えた以上、それを押し込めて過ごしては、その不満をすべて家のせい、迅之介のせいにして生きてしまう気がした。それも嫌だった。
今のところ己が選んだ道を引き返したいとは思わない。
望んだすべてが手に入らないとしても。
「私に武家のしきたりは合わないの。駄目な娘だから。ずっと我慢して悔やんで生きるより、やりたいことをしようって決めて、そうして今があるの。いっぱい傷つけてしまった人もいるけれど、それでもね。無理をし続けていたら、その人のことをもっともっと傷つけたと思うから」
それは千世の言い分であり、迅之介から見ればまた違うのだろう。
婿に入るはずだった家がなくなり、許嫁に逃げられた男だと顔に泥を塗られたのだ。怒らない方がどうかしている。
本当に、愛想を尽かされるのが遅かった。
どうしてこんなにかかったのかと不思議なくらいだ。
「何にもまして大事だと思えるものは自分で守らなくちゃ駄目よ。悔いが残らないようにね」
千世にとっての一番は、月見堂である。
ときにとっての一番は、この長屋か。
それならば、おのずと答えは見えてくるのかもしれない。
もし、ときが若旦那との縁談を断るのなら、その時は蓮二の調べたことを告げてもいいだろうか。
ときは千世の言葉にただうなずいた。
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