第43話

 朝になって、みつが長屋までときの様子を窺いに行ってくれた。

 無理もないが、ときはひどく落ち込んでいたそうだ。


 若旦那がときを見初めたというのは栄助がそう仕向けたからであって、若旦那の本心かが怪しくなってしまった。

 その栄助が茂助を殺めた咎で引っ張られた後、文芝堂はてんやわんやの大騒ぎになって、祝言どころではなくなったのも想像がつく。祝言は先に延びるのではないだろうか。


 どう言葉をかけていいのかわからない。しばらくは不憫なときをそっとしておくことしかできないかもしれない。


「おときさんは紅梅屋のおとっつぁんにいつ会うのかしら?」

「どうなんでしょうねぇ」


 と、権六ものん気な声を上げた。

 紅梅屋は文芝堂以上に大変なことになっているだろう。内儀は離縁され、死んだとされていた娘が生きていたのだから。


 吉右衛門にも心を落ち着ける時が必要だろう。しばらくは落ち着いて会う段取りが組めないとも考えられる。

 ときの方から紅梅屋へ行くには相当の心構えがいるはずだ。相手は何せ大店の主だから、実の父だと聞かされてもぴんと来ないことだろう。気後れしてしまうのではないのか。



 ――などと考えたのは、他人ばかりである。


 当の吉右衛門は、娘が生きていると聞かされ、履物を履くのも忘れて店を飛び出したのだそうだ。そんな兄の履物を携え、弟の孫次郎が追いかけたという。


 その、ときと吉右衛門、孫次郎が後日、揃って月見堂にやってきた。


「お千世さん、その節は大変お世話になりました」


 頭を下げたときは、いつものときである。大店の主である父と再会した後も、ごく普通の、どちらかといえば貧しい町娘のままだ。


 紅梅屋吉右衛門は、孫次郎よりも体格がよく、衣紋かけのような肩幅をしていた。髷は白くなりつつあるものの、目は生き生きと輝いている。


「この月見堂さんには娘が世話になったそうだから、一度ご挨拶をさせて頂こうかと思ってね。私が紅梅屋吉右衛門だ」

「月見堂の千世と申します」


 千世は板敷に手を突いて頭を下げた。

 顔を上げた時、ふと吉右衛門の耳を見た。それから、ときの耳も。

 少し顔を見ただけではそれほど似ていないけれど、耳は二人とも確かに福耳だった。


「おときさん、親御さんとお会いできてよかったわね」


 何より、要らなくて捨てられたのではないということがわかったのが大きい。母親はすでに亡くなっているのが残念だけれど、それでも片親にだけでも会えたのだ。


 ときは一連の騒動で傷つきもしただろうけれど、父に会えたことは嬉しかったに違いない。

 それが顔から伝わる。そのことに千世もほっとした。


「ええ、まさかこんなに立派なおとっつぁんだったなんて、びっくりしてしまいました」


 はにかんで笑うときに、千世も微笑ましい気持ちになる。

 ときはこれからどうするのかと訊きたかったけれど、容易には訊けなかった。それをときの方から言い出した。


「実は、文芝堂の若旦那との縁談はお断りしました」

「えっ」


 それはあっさりと、笑顔で言った。


「あの時、あたしは若旦那を好いているというより、お店のお内儀になるっていうことに憧れていただけだったのかもしれません。でも、長屋を離れるんだって考えてからは、それがそんなにいいものだとは思えなくなってしまっていたんです」


 そこで吉右衛門ははぁ、とため息をついた。


「せっかく会えたのに、うちにも来てくれないって言うんだよ。あの長屋が自分を育ててくれたから、あの長屋にずっと住んで皆さんに恩返しがしたいって」


 それに関しては、ときも悪いと思っているのかもしれない。しょんぼりとして言った。


「ごめんなさい。でも、おとっつぁんの顔を見に通います。今までの分を取り戻したいから、たくさんお話をしたいと思っています」


 そんなやり取りを聞きながら、孫次郎は終始にこにこしていた。

 吉右衛門もときの健気さに心を打たれた様子である。しかし、それから覚めると、言いにくそうにつぶやいた。


「お恵は、あれで可哀想な女ではあるんだよ。けれど、だからといって何をしても許されるというわけじゃあない。私としても、あれを救ってやれると思い上がっていた。何をしてもつい甘く接してしまい、それがかえっていけなかったんだ」


 恵が謀など企てずに皆にも思いやりを持って接してくれればと悔やまれる。そこは今さら言っても仕方がないけれど。

 しんみりとした場で、千世は努めて明るい声を出した。


「おときさん、長屋にずっといたいって言っても、いつかはお嫁に行くのでしょう? それとも、長屋にいい人でもいるのかしら」


 太助はときを好いているけれど、あの分だときっとまだ何も言えていない。それでも、その想いに気づけたらいいと思った。

 余計なことだけれど、ついそんな気持ちが出てしまう。

 すると、ときは急に顔を赤らめた。


「あ、その、それは――」


 あれ、と千世は小首をかしげた。

 吉右衛門がそわそわとし出す。まだ嫁にやりたくないのだろう。


 祝言が流れたばかりなのだから、今はそんな気になれないだろうと思ったのだが、これはもしかすると太助が男気を見せたのかもしれない。それで若旦那を選ばなかったのだろうか。


 千世はフフ、と笑った。


「おときさんが大変な目に遭った分も幸せになれるように願っているわ。またいつでも用があったらここへ来てね」

「ええ、ありがとうございます、お千世さん」


 吉右衛門の、ときを見守る目の優しいこと。

 ただ、そんな父子を見て千世は自分が傷ついていることを感じ取った。そんな必要はないのに。


「お佐江さえ――いや、おときが消えたのは十五夜だった。今度の十三夜は共に月見をすると約束したんだ。長い――片見月がようやく終える。本当にありがとう」


 そうして、三人は去った。

 仲秋の、少し冷たさを感じる風が吹いていた。

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