第45話

 その日は九月十三日――十三夜であった。


 千世はこの日も十五夜以上に張りきって支度をした。

 十五夜をすっぽかした蓮二だが、十三夜は来ると言う。その時、千世はしつこく訊いてしまった。


「蓮二は十五夜の月見をどこかで誰かとしたのよね?」

「ん? どうだったかな」


 適当な返事をした蓮二に、千世は詰め寄る。


「もしかして、寝ていただけで月見をしていないのではないの? だとしたら駄目よ。蓮二は今日も月見をせずに寝てしまいなさい」

「なんだ、この間すっぽかしたことをまだ根に持ってんのか?」


 蓮二は呆れたような目をしたけれど、そうではない。そうではないのだ。


「片見月は縁起が悪いのよ。わかっているでしょう?」


 月見は、十五夜と十三夜の両方をそろえてこそのことである。どちらか一方しか見ないのではいけない。絶対に。


 適当な蓮二だから、そんなものは迷信だと取り合わないと思った。けれど、それではいけない。

 何故なら、片見月は本当に縁起が悪いことだと、千世が身をもって知っているからだ。


「いい? 今日は大人しく家から出ずにいなさいね」


 千世があまりに深刻な顔をして言うから、蓮二も馬鹿にはできなかったらしい。首筋を掻き、渋々帰った。



     ❖



 その夜、十五夜よりも少し欠けた十三夜の月を皆で眺めた。

 縁側に腰かけ、千世はその月に見惚れていた。じっと月だけを見て、色々なことに想いを馳せる。


 今年もちゃんと両方の月見ができた。

 月が滲んで見えなくなるほど目頭が熱くなる。

 そんな千世の横顔に、迅之介がそっと声をかけた。


「片見月は縁起が悪い、か。しかし、そんなものは迷信だ」


 千世はそのひと言で弾かれたように迅之介に向き直った。気づけば、権六もみつも仙吉もいない。何故か二人きりであった。気を利かせたというのだろうか。


 しかし、そんな甘い雰囲気ではない。

 千世は迷信だと軽く言った迅之介の言葉を受け入れられなかった。


「迷信ではございません。本当に、よくないことが起こるのです」


 すると、迅之介は小さく息をつく。


「千世のお父上が亡くなった時のことを言うのだろう?」


 核心を突く言葉だった。千世は餅を喉に詰めてしまった時のように呻くしかない。

 それを言い当てられるとは思っていなかったのだ。


 迅之介は千世を優しく諭すように言う。


「あの年の十三夜、千世は風邪をひいて寝込んでいたな。月見どころではなかった。けれど、だからといって不幸は片見月のせいではない」

「け、けれど――」

「千世は病に倒れたお父上の看病で疲れていたのだろう? 体が弱っていて寝込んだのは仕方のないことだ。お前が月見をしていたとしてもお父上は助からなかったはずだ。それでも、お前がお父上の死に責を感じ、家から離れようとしたように思えてならなかった。だから、苦しいのなら、お前が家を出るのもよかろうと――」


 何もかもが自分のせいに思えた。千世が父を不幸にして死なせたと。

 父の死に重荷を背負わされたような気になったのは、父とわかり合えなかったせいだ。

 父子二人の心があまりにも離れすぎていたから。 


 迅之介は、千世を苦しめぬために家を出るという決断を止めなかったのか。

 それによって己の行く末も思い描いていたものとは違うものになるだろうに、それでも千世の心を優先してくれた。そんなことがあるものなのか。


 迅之介はいつになく饒舌に語る。


「千世が寝込んでいる時、見舞った千世のお父上から頼まれた」

「え?」

「千世をよろしく頼むと」

「それは、月島の家を頼む、という意味でございますよ」


 千世を娶り、月島の家の主となって家を守ってほしい、とそういう意味で娘を頼むと言っただけのことだ。

 家との関りがなくなった千世の面倒まで見ろという意味ではない。その勘違いが迅之介らしいと思った。


 しかし、迅之介はかぶりを振る。


「いいや、千世を、だ。跳ねっ返りに育ててしまってすまないが、それでも千世を頼む、と」

「まさか――」

「お前は思い込みが激しい。男に生まれなかったことを気にしていたのは、お前自身だ。お父上がお前に淑やかであれと窘めたのは、それが女としての幸せに繋がると考えられたからだが、床に伏してからはあんなことを言うべきではなかったと悔いておられた。俺なら、淑やかでない千世でも受け入れてくれるのだからと仰ってくださった」

「そんなことを……」


 迅之介の言う通りなのだろうか。

 父は、千世が息子ではないことを責めてはいなかったのか。


 跡取りになり得ない娘の身であることを千世が気にしていたのは、紛れもなく幼い頃の父の言動からである。息子であればよかったと言われた。


 けれど、父もそのうちに千世が父の言動によって傷ついたことを知ったのかもしれない。そして、娘を傷つけたことに気づいた父は、自身もまた傷ついたのか。

 千世はすっかり父と間を取り、冷ややかな目をしていた。父の言うことすべてを悪く受け取ってしまうようになっていた。


 千世には父の心がわからなかったけれど、父娘を見ていた迅之介はそれに気づいていた。迅之介が千世を見捨てない理由は、そこにもあるのかもしれない。そんな父の想いを知るからこそ、どうあっても千世を守ろうとする。誓いを貫こうとする。


 父はどんな想いで迅之介に、千世を頼むと告げたのだろう。

 ――すでに亡い人の心など、もう知ることはできないのだ。あれこれと考え、悔いるしかない。あの時、どうしてもっと顔を合わせて話さなかったのかと。


 目に涙が浮かぶのは、色々な感情が入り乱れるからだ。父が千世をほんの少しでも想っていてくれたのなら、千世はそんな父にひどい仕打ちばかりしてしまったことになる。

 それが情けなく、愚かしかった。


「千世が娘ではなく息子だったなら、こんなに心配しなくとも済んだのだろうかと仰られたお父上のお言葉が、俺にはわからなくもない。意地っ張りなお前が、周りは皆心配なのだ」


 父の言葉の真意は、千世には到底気づけるものではなかった。それを迅之介が伝えてくれる。

 今は亡き父の心が、迅之介の中に生きている。余程の強い想いでなければこうはならない。父は、心の底から千世を案じ、迅之介に託したのだ。

 こんなにも可愛げのない娘をずっと見守っていてくれていた父に、遅すぎるとしても今は感謝しよう。


 明るく美しい月が、今も迷える千世を照らしている。

 涙が零れそうになって、千世は人差し指の背で涙を受け止めた。それを迅之介に見られぬよう、顔を背ける。

 迅之介は月を見上げていた。それが迅之介の優しさだと、千世は思う。


「――まあ、片見月が縁起の悪いものだというのなら、十五夜も十三夜も、ずっと俺がこうして共に月を見上げている」


 ずっと。

 そんなことが叶うのかどうかはわからない。


 けれど、この言葉を違えることなく守ろうとしてくれると伝わった。

 もし離れる日が来たとしても、迅之介の心を千世が疑うことはないだろう。迅之介は本気で千世を大切にしてくれていたのだと。


「そうですね。月はどこから見ても同じく空にありますから、迅之介さまも必ず月見をなさってください」


 もし、離れても、迅之介も同じ月を見ている。千世はきっとそう思って生きていける。


「空に月は出ているというのに、お前はいつも雲に隠れたがるな」


 曖昧なことばかり言う千世に、迅之介なりの皮肉であった。


「俺はもう心を決めている。あとはお前次第だ」


 それでも、本心など言えるはずもない。

 千世はそっと、十三夜の月に願った。


 迅之介の安寧を――。


     【 了 】

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深川損料屋月見堂 ~片見月~ 五十鈴りく @isuzu6

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