第12話

 さっそくその界隈に着くと、扇を模した形の、〈御影堂みえいどう〉と文字の入った看板が目についた。客足が途絶えず、ひっきりなしに店の中へと入ってゆく。客は女子が多い。これだけ人が集まるようになるまで、結構な苦労もあったことだろう。


 中の様子が少しだけ覗けた。店には数々の扇が見やすく並べられているばかりでなく、客たちに奉公人がつき、丁寧に品物の説明をしているふうであった。

 丁稚たちも店先を綺麗に整え、はきはきと挨拶をしながら客を迎え入れており、躾が行き届いている。


「あ、孫次郎さんがいるわ」


 番頭の孫次郎は、店を仕切っている。主の弟ということもあり、番頭の中でも一番番頭なのではないだろうか。皆と同じ縞の仕着せを着て、あれやこれやと指示をしているのが垣間見えた。


「客を装って中に入るか」


 迅之介がささやく。千世はうなずいた。


「ええ、そうしましょう」


 店の軒下へ近づいた途端に、丁稚がささ、と中へ促す。千世はそんな丁稚に笑顔を向け、迅之介と仙吉を伴って中に入った。


「ようこそ、紅梅屋へお越しくださいました」


 奉公人たちは怒鳴っているわけでもないのによく声を響かせる。

 美しい扇の品ぞろえを前に、女たちのきゃあきゃあとはしゃぐ声が聞こえる中、千世は品物を見るふりをしながら様子を窺った。


 もともと内儀は客あしらいなどしないという。店先にいるとは限らない。

 見た限り女は客ばかりで、それらしい者はいなかった。

 孫次郎がすぐに千世たちに気づき、こっそりと寄ってきてささやく。


「あの女は今日も出掛けたまま戻っていないんだ。いつ戻るか、誰も聞いていないらしくて」


 千世は置かれていた緋色の扇をパッと開き、それに見入っているように装いつつ孫次郎に返す。


「そうですか。ではしばらく外で待ってみましょう」

「ああ、そうしておくれ」


 扇を畳んで孫次郎に手渡すと千世は、二人を促して店の外へ出た。そうして、きょろきょろと辺りを見回す。


「いないみたいだけれど、外にいるってことは家に戻ってくるわけだから、家に入るところを見られるはずよね。もうしばらくこの辺りで時を潰しましょうか」

「おいら、腹が減っておりやす」


 昼餉の前だ。気持ちはわかるのだが、仙吉には遠慮というものがない。


「そこに団子屋があるな。あそこからなら紅梅屋の表もよく見えるから、団子でも食うか」


 と、迅之介が言い出した。子供らしく甘味が好きな仙吉はパッと顔を輝かせる。


「団子ならおいら何本でも食べやす。餡団子ならなおいいです」


 何様だと時々言いたくなるが、不思議と怒る気になれない。千世は苦笑しつつ、仙吉の肩に手を置いてうなずいた。


「そうね。じゃあ、あそこから見張りましょう」


 団子屋の店先で毛氈を敷いた床几の上に座ると、赤い前垂れをした娘が茶を運んできた。

 迅之介が団子を頼むと、娘は顔を前垂れほどに赤くして恥じらい、奥に引っ込んだ。

 見目がよい迅之介は目立つ。こうした人目につきたくない時には連れ歩くべきではないなと千世は改めて思った。


 千世は昔とは違い、髪も町人風の潰し島田に結い直している。この若侍と釣り合いが取れているようには見えないだろう。それに丁稚までついているのだから、気になる三人ではあるかもしれない。チラチラと団子屋の前を通る人々の目が向いている。

 団子を運んできた娘は団子を落とすのではないかいうくらい、手が震えていた。


「ありがとう」


 迅之介ではなく千世が団子を受け取ると、がっかりされた。

 その団子を、仙吉が喉を詰めるのではないかと心配になるほど頬張っていた。


「ゆっくり食べなさい。それから、食べながらもちゃんと紅梅屋さんの方に目は向けること」


 何度もうなずくものの、仙吉は団子に夢中である。怪しいものだ。

 千世も餡がたっぷりと載った団子を頬張る。実家にいた頃ならば絶対にできない無作法である。厳しかった千世の祖母や父が知ったなら、激しく叱責をくれただろう。そう思うと、それさえ懐かしくあった。


 団子は甘く、十分に美味しい。朗らかな陽気の中、活気づいた人々が行き交う道端で団子を食べる、この些細なことがとても幸せだ。町人になってよかったとしみじみ感じる。

 そんな千世の心を覗いたかのように、迅之介は紅梅屋へ目を向けたままでつぶやいた。


「のんびりと過ごすのも、そう悪くはない」

「遊びに来たのではございません」


 思わずそんな悪態をついてしまう。それでも、迅之介はすでに団子を食べ終え、千世に笑って返すだけであった。


 どんなに千世が刺々しくあろうと、それすら包んでしまうゆとりは一体何なのだろうか。

 つき合いも長いのだから気心が知れているのは当然だとしても、世の中にはたくさんの女子がいるのだから、そろそろ他所に目を向けて愛想を尽かしそうなものだろうに。


 これはもう、迅之介の意地だと千世は結論づけた。

 たまには家に帰ったらどうかと苦言しようとした千世だったが、その時、迅之介が身じろぎした。


「千世、あの女人ではないのか?」

「えっ?」


 言われて見向くと、客を見送っていた手代に何やら文句を言っている女がいた。手代の様子から、客とは少し違うように感じられた。


「そ、そうかも――。仙吉、行くわよ」


 無心に団子を食べ続けていた仙吉は、危うく喉を詰まらせそうになって、千世は慌ててその背中を叩いた。その隙に迅之介が銭を支払う。


「千世、先に行くぞ」

「あっ」


 このまま中に入られてしまうと顔も見えなくなる。誰か一人でも見ておかなければと思ったのだろう。迅之介は素早く店先を通り、手代に突っかかっていた女の様子を見に行った。

 千世も急ごうと思うのだが、あろうことか仙吉が言った。


「おいら、腹が膨れて動けやせん」

「――もうっ。ここにいなさい」


 仙吉を店先に残し、千世も内儀の顔を見るべく急いだ。しかし、その時、内儀はフイ、と店の中へ入ってしまった。そこからはもう後ろ姿しか見えない。

 がっかりした千世に、戻ってきた迅之介がささやく。


「あの女人、やはりお内儀のようだ。手代がそう呼んでいた」

「迅之介さまはお顔を確かめられましたか?」

「ああ、見た」


 迅之介が見たというのなら、目的は達したことになる。千世も見ておきたかったが、今さら言っても仕方がない。

 迅之介が知っているのだから、誰かに同行して教えてもらうしかない。


 また迅之介に頼まなくてはならないのだが、今度ばかりは仕方がない。仕切り直して内儀の顔を知るだけのことに何日もかけていては、孫次郎の忍耐が持たないだろう。


「迅之介さま、明日、そのお内儀さんがどこへ行くか後をつけて頂きたいのですが」


 目を見ず、やや外れたところを見ながら言った千世に、迅之介はあっさりとうなずいた。


「よかろう。繋ぎに仙吉を連れていく。団子代ほどには働くだろう」


 仙吉を連れていけば、何かが起こった時に千世のもとまで走って報らせることができる。また迅之介に借りが増えて、千世は苦い気分だった。


「迅之介さまはうちの奉公人ではございません。嫌ならお断りくださいといつも申しておりますが」


 断られては困るくせに、ついそんなことを言ってしまう。それを迅之介もわかっているのだ。


「嫌なら断る。断らぬのはそういうことだ」


 さらりと答え、あまつさえ笑みまで浮かべる。千世に頼られて嬉しいとでも思っているのだろうか。


 千世は迅之介に気を持たせるようなことはしたくない。それでも、頼らざるを得ない時が多くある。それがもどかしく、そうして都合のいい自分が嫌になる。

 そんな心が顔に出てしまっているのか、迅之介はそれ以上言わずに遠くを見遣った。


「さて、仙吉を拾って戻るとするか」

「はい」


 仙吉は団子屋の店先で腹を摩っている。のん気なものだ。


 そうして、仙吉がいる場所は少し離れており、迅之介の背中に数歩遅れて続く千世が周りからどう見えているのかが気になって落ち着かなかった。

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