track #37 - My Blueberry Nights

 ニューヨークから戻ってすぐに小野瀬は引退を発表して、活動休止のままだったグループも事実上の解散となって、大きな騒ぎとなっていた。彼は子供の頃からこの仕事をしていたので、もっと世界を見てみたい、もっと人として成長したいと引退理由を公表をしたが、あまりにも抽象的だったからか、重病説や結婚説などの憶測が飛んだ。幸いなことにアタシの名前は出ていない。

彼は実際、アタシにも似たような引退理由を言っていた。もっと自分の人生を謳歌したいと。20年ちかくスターという職業をやってきた彼は心底疲れているように感じて、アタシは彼の選択を尊重している。

結果的に最後のコンサートとなってしまった年末の3か所のドームツアーを終え、大晦日の最後のテレビ出演を終えて、引退した。


 年が明けてすぐにスーツケース3個と共に小野瀬がウチに来た。

空港で別れて以来の再会で、2ヶ月近くアタシ達は毎日のように連絡を取っていた。アタシがまた日本に住む提案もしたが、それは彼が却下した。いくら引退したとはいえ、スターだった彼をマスコミやファンがほおっておいてくれるわけもなく落ち着かないからだ。

「それにオレ外国に住んでみたかったんだよね」

アタシに気を遣わせないためかもしれないが、そうとも言っていた。ニューヨークに不慣れな彼を1人で住ませるわけにもいかず、アタシはちょうど1人暮らしだし、ウチに住まわせることにした。

彼は東京で住んでいたマンションを引き払い、ほとんどの荷物を実家に預けて、当面必要なものをスーツケース3つにまとめてウチにやって来たのだった。

荷物と彼を目の前にして急に現実味が増して恥ずかしくなったアタシが

「急に同棲とか、ちょっと早すぎるよね、展開」

と、言うと

「急ではないかな、オレはこうなるの5年待ったし」

恥ずかしげもなくアイドルらしい屈託のない笑顔で彼は答えたので、さらに恥ずかしくなったアタシは

「サオリちゃんとも同棲してた?」

と、かわいげもないことを口走った。

「え! やっぱ知ってた? 知ってたかぁ……」

アタシが初めて元彼女のサオリについて言ったので、小野瀬は激しく動揺していた。

「でも、今はもうなんでもねぇし、っていうか、もうとっくに切れてるから。いろいろ言われてるけど、別れてから連絡も取ってないし」

彼は焦って聞きもしないことを言っていて、その姿が可愛らしくて笑った。

「アタシはそんなこと気にしてないよ、誰にでも過去はあるじゃん」

「ならいいけど。ならいんだけどさ……」

動揺した小野瀬は可愛かった。


 荷物を少し片づけて夕飯を食べて初めての夜を一緒に過ごした。

彼の広げた腕に頭を乗せて2人で息を切らし天井を見ていた。やはり展開が急すぎて恥ずかしさがこみ上げたアタシは

「ねぇ、サオリちゃんとはどうして別れちゃったの?」

まだサオリの話をきりだした。

「アイちゃんさぁ、このタイミングでアイツの名前出すのやめねぇ?」

少し呆れながらも笑いながら彼は答えた。

「浮気されたんだよ」

「え、まじ? ごめん、聞いちゃって」

「いや、いいけど、もう何とも思ってねぇから。浮気されたっつぅか、オレが浮気相手だったのかもなぁ」

照れ隠しに思わず聞いてしまったサオリの件を小野瀬は遠い昔のことを語るように話し出した。やはりサオリは業界でウワサされていた通り、自身をスターにしてくれた事務所DEAR STARディア スターの社長と付き合っていた。彼らの関係を明確に表す言葉はないが男女の関係だったのは間違いなく、小野瀬は彼女と交際を続けているうちに彼らの関係に気がつき、彼女を責めても、彼らは離れることはなかったという。自分の存在が軽んじられているように感じて別れたのだった。

サオリはその後は俳優やインフルエンサーなどと交際を報道されていたし、社長はサオリではない人と結婚して子供までいる。でもサオリがDEAR STARディア スターに在籍しつづけているのは、2人の暗黙で割り切った親密な交際がずっと続いているからだと小野瀬は分析していた。

サオリほどのスターがDEAR STARディア スターを去るチャンスはあった。社長がハラスメントで訴えられた時はまさに絶好のタイミングだった。だけどサオリは社長をかばい、DEAR STARディア スターに残った。あの時アタシはサオリの行動が腑に落ちなかったが、小野瀬の話を聞いてようやく納得できた。なぜ2人がそれほどまでに強固に結びついているのかわかったが、なぜそれほどまでに結びつきの深い2人は2人だけでその世界を構築しないのかがわからなかった。

小野瀬のヨミが当たってるのならば、彼のように悲しい思いをする人がまた1人、また1人と増えるだけなのに。

「オレはアイツも、アイツの事務所もハッキリ言って嫌い。あぁいう業界の体質にもうんざりでさ」

「それは辞めた理由に入る?」

「まぁ……少しは、あるかな……」

アタシも5年前、うんざりしていた。彼はアタシよりも前に業界に絶望し、それでも頑張っていたのだ。そしてアタシと疎遠になってからもまだ頑張り続けていたのだ。

彼は上半身を起こし

「アイちゃんが戦おうとしてたのはわかってんだけど……」

サイドテーブルに置いてある水に手を伸ばしながら言った。アタシは寝転がったままうっすらと筋肉の付いた背中を見つめながら彼の話に耳を傾けた。

「アイちゃんは強くてかっこいいなって思ってたんだ。それに引き換えオレはね……」

水を飲んで上半身をひねって、笑顔と切なさが入り混じった複雑な表情でまだ横になっているアタシを見た。

「アタシも結局戦えなかったよ、むしろさっさと逃げ出したんだよ」

何も応答はせず彼は身体を向きなおして、また水の入ったグラスをサイドテーブルに戻して、アタシの横に今度はうつ伏せになった。

「逃げ出すのは悪いことじゃねぇよ。それが最善の時もあると思う」

「そうかな……」

「アイちゃんは見て見ぬふりしなかっただけまだマシだよ」

「小野瀬くんもいろいろ考えてたんだね」

アタシがそう言うと

「何も考えてなさそうだった? オレ」

と、大きな声で笑いながら返した。

あの頃アタシは小野瀬のことを忙しくて他人のことなど気にしている余裕はないのだと思っていた。あまりにも存在が大きくて他人のことなど気にとめていないのだと思っていた。でも彼も彼なりにいろいろ感じていたのだ。

「オレはなるべく正しくて優しい世界で生きていきたいと思ってんだよね。もう何かに目をつぶったり、自分を押し殺してイヤなことをやるもの、もうイヤなんだ」

その"正しくて優しい世界"を一緒に歩んでゆくパートナーはアタシしかいないと思っていたそうだ。

「アタシ、そんな、立派な人間じゃないよ?」

と、眉毛をかしげて言うと

「でも、正しくあろうとしてるでしょ?」

と、言われうなずいた。自分が聖人君子だとは思わないし、間違ったこともしてきた。なんのチカラもないとわかっている。

「アイちゃんの存在は、少なくともオレ、1人かもだけど、いい方向に導いてくれたのは確かだよ」

小野瀬はそう言ってアタシに微笑んだ。彼の人生の大きな選択と決断に立ち会えた上に、この先も一緒に歩んで行けるのは光栄だった。そしてなにより以前も、少し前も、この世界や自分の非力さに絶望していたアタシを彼の笑顔が救ってくれた。

いろいろなしがらみで行動に移せなかっただけで彼の心の中はものすごく優しさがつまっている、そんな人の笑顔だ。それは初めて会った時に感じていた。

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