track #38 - Eat Pray Love
アタシと小野瀬は日本から遠いニューヨークで、2人きりの穏やかで温かく愛に満ちた生活を送っていた。
そんな生活も早半年、衝動的に始まったように感じていた2人の関係に当初は不安もあったが、思いのほかアタシ達は恋人として日々絆を深めている。
小野瀬はすべての仕事を辞めてしまってやることがなく家事をしている。片言の英語を話せるようにはなったが、まだ働きにでるほどではなく、家事をしてギターを弾いてアタシと愛し合い、よく寝て、よく食べ、よくしゃべり、よく笑い、自由気ままに暮らしている。どれほどの蓄えがあるかは知らないが、あれだけ人気を得て仕事をしてきたのだから、当面の暮らしに困らないほどはあるのだろう。
伸びたボサボサの髪を後ろにお団子のように無造作に束ねて、着古したスウェット姿で日の当たる窓辺でギターを奏でている姿は、スターだった面影は見えないが、とても幸せなそうな表情をしている。
その様を見ているアタシにも多幸感があふれ、声がかけられなくなる。
ずっとそんな彼を見つめながら生きていきたいと思うからだ。
「猫のボランティアしようと思って」
彼は暇を持て余したのか、新しいことを始めることにした。
「猫の? ボランティア? ってなに?」
言葉足らずな彼が面白くて笑いながら聞き返すと、外で暮らしている猫 ─── 主に妊娠中や子猫をつれた猫を保護して、子猫が安定するまで家でお世話して里親に託すということを個人的にやっている一家がいるそうだ。
その家は2階に猫の家族が何家族かが暮らせるように改装してあって、里親や援助を募るために各部屋が24時間YouTubeでライブ中継されていて、彼はそのライブを日々楽しんでるという。
部屋の掃除や猫達の世話をしているのが、その家主だけではなく、ボランティアで通ってくる近隣の猫好きの人々もいるようで、そのボランティアスタッフを募集しているのを知って応募してみようということだった。
小野瀬が猫が好きなのを初めて知った。
実家には物心ついた時にはすでに猫がいて兄弟のように暮らしてきた。スターになるために実家から離れて1人暮らしを始めてからは猫のいない生活が少しあったが、金銭的に余裕ができてからは保護猫を譲り受けたそうだ。引退前にはその子も亡くなっていて、いつかまた猫との暮らしを夢見ていたが、今は自分の家ではないのでボランティアをして猫のために自分の時間を使いたいと考えたようだ。
「そんなに猫好きなの?」
「好きじゃないの?」
猫が好きなことはあたりまえのように人間に備わった感情だとばかりに真面目な顔で彼は猫が好きなことを認めた。
「好きか嫌いかだと好きだけど……犬も好きだよ?」
彼の眼差しにひるんだアタシは弱弱しく答えると
「そんな猫顔して? 犬もかわいいけど、オレは猫派だね、完全に」
アタシは自分が猫顔なのだと、彼の発言で知った。
「あ、だから、小野瀬くんはアタシが好きなんだね」
アタシがふざけて言うと
「そうかもぉ」
彼もこれはまた初めて気が付いたと言わんばかりの声をあげて納得していた。
そして2人で笑った。
それから小野瀬は“猫のボランティア”と、いつか一緒に行ったギターレッスンの場所で行われてる朝食プログラムのボランティアに週数回行くようになった。
夕飯の時間にはその日そこであったことを報告してくれる。
お腹の大きな猫はもうすぐ出産のようで暗い家のような形状の箱からあまり出てこなくなってしまったこと、別の猫家族の子猫が何匹かもらわれていったこと、朝ご飯を食べられない子供がたくさんいる現実に驚いたこと、でもその子供達はイキイキとした表情で学校へ向かうことなど、たくさんの出来事を話してくれる。
スターだった彼が自分が今取り組んでいる仕事についてあまり話さなかったが、その頃とはまるで別人だった。アタシ以外の人と交流を持つことによって英語も上達してニューヨークでの暮らしを満喫しているのがわかった。
「オレ、誕生日なんだけど。欲しいもんがあるんだよね」
ある日小野瀬は唐突に誕生日の贈り物をねだった。まだ誕生日の日付をはっきりと覚えてもいないのにだ。
「いがいとずうずうしんだね、なんなの?」
アタシがわざと呆れたような言いぶりで返すと欲しいものを語りだした。
それは予想していた答えだった。“猫のボランティア”に行きたいと彼が発した時から予期していた。
ボランティア先の子猫を引き取りたいというのだ。
反対する理由もなくアタシが賛成するとさっそく翌日にオレンジ色の小さくふわふわした子猫を抱いて満面の笑顔で帰宅した。
『
アタシもそんなかわいいNekoの虜になって
「アイちゃん、オレよりNekoのが好きでしょ?!」
と、彼がふざけて言うほどだった。
アタシには以前から小野瀬の誕生日にプレゼントしようと考えていたものがあった。それは猫ではなく、バイクだ。
彼はバイクで走ることが好きで、東京に愛車を置いてきたのを知っていたし、始めてのデートで彼の後ろに乗った時の安心感と高揚感が忘れられなかったからだ。
バイクには疎いアタシがサプライズしたいからと言って勝手なカンだけで購入すべきではないので、一緒にバイク店に行って選んでもらった。
数日後、彼が注文したバイクを取りに行き、戻ってすぐまた慣れるためにといってどこかへ走りに行った。2時間くらするとまた戻ってきて、今度はアタシを後ろに乗せると言い出し、アタシは仕事中にもかかわらず家を出て2人で夜の風を浴びた。
あの時とかわらず、彼の背中は暖かく安心した。
それから彼はヒマができると気分転換に走りにいき、週に1回程度アタシも乗せてまた走る。
「レーサーになるのとかいいかも」
未だ特定の仕事についてない彼は言った。
「まぁ、夢は大きく。だけど危ないじゃん、心配だよ」
さすがにアタシでも一般道をアタシを乗せて走るのとレースは違うことくらいはわかるので、危惧すると
「憧れだよ、憧れ。そんな才能はないから」
と、笑っていた。
小野瀬が芸能界を引退すると発表してから1年たった。
始めて一緒に迎えるクリスマスがやってきた。
「本場のクリスマスはちげぇなぁ」
彼はニューヨークの街が煌びやかに装飾されていくのを見て感動していたが、
「本場ではないと思うけど」と、目を輝かせている彼にくぎを刺したくなかったので伝えるのを辞めた。アタシはクリスマスに特別な感情は持っていないが、初めてのニューヨークのクリスマスを純粋に楽しもうとしている彼の邪魔はしたくなく、一緒にホリデーシーズンをおもいきり楽しんだ。
そしてクリスマス当日、アタシは彼を教会に連れて行った。
アタシは特定の宗教を信仰してはいないが、歌いに行っているバーのオーナーが近所の教会で炊き出しをやっているので、毎年それを手伝っている。近隣から寄付されたたくさんのプレゼントと食事を求めて、クリスマスでさえもお腹を空かせた人が集まってくる。彼もそれを一緒に手伝った。
「なんか、うかれてるだけじゃダメだよな……」
彼はパンの入った大きなケースを運びながらつぶやいた。
「うかれてもイイんだよ、でもそうできない人もいるってことも忘れなければ」
アタシが言うと彼はいつもの優しい笑顔を作った。
食事を配り、一緒に歌を歌ったりして、そこに来ているすべての人とクリスマスの夜を謳歌した。
一通りを終えて、教会から出ると
「アイちゃんにプレゼントあるんだ」
と、彼はアタシの足をとめて、2人で教会の前の小さな庭で立ち止まった。
「え、アタシ、用意してないよ……一緒に買いに行こうかと思ってた……」
アタシが動揺すると彼は正面に立ちアタシの両手をとった。
「オレ、たくさんのこと学んだ1年だった気がする、アイちゃんと出逢ってからいろんなこと考えるようになって」
小野瀬は語り始めた。
この日のボランティアも“猫のボランティア”も朝食プログラムの手伝いも、新鮮な経験で自分の存在意義が初めて見いだせたという。自分の決断でやるべきことを決めて、自分の意志でそれに取り組む、そんな日常に満足で充実感を得ているようだ。
「オレはやっとまともな人間になれた気がしてるんだ」
「それは違うよ。小野瀬くんはスターの時から、人々に楽しみとか安らぎとかを与えてたよ。忙しすぎたし、子供だったから、まだそれに気づけなかっただけだよ」
「それならいいけど……アイちゃんのおかげだよ」
と、彼は言いながらパンツのポケットに手を突っ込み、四角い小さな箱を取り出した。
「もらってくれる?」
そう言いながら彼は箱の上側を開けて、中にはキラリと輝くダイヤの指輪が鎮座していた。アタシはあまりにもキレイなプレゼントに言葉を失うと
「本当はプロポーズしようかとも思ったんだけど───」
彼はその指輪を箱から取り出して言葉を続けた。
「無職の分際でって思ってさ、プロポーズの予約ってことで」
笑いながらアタシの左手を顔の前まで持っていき薬指に眩く輝くものをはめた。
まだ声が出せないアタシは何も言わずに彼の首両手を回し軽く跳ねて抱きついた。彼もアタシの体に両腕を回して固く抱きしめ返した。
「ありがと、大切にするね」
耳元でアタシが言うと「うん」と彼は小さくうなずいた。
たわいもない、なんともない、意味もない、会話で笑い合って、時間が過ぎていく。アタシ達の日常は煌びやかでも派手でもなく、とりたてて特別ではないが、大切なものだった。
アタシは神という存在を信じてはいないが、小野瀬との日常がずっと続くようにと強く祈った。
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