第6話 彼女の不安
警察本部は官舎の目の前にあるから、いつも制服のまま出勤する。警務部の部屋に行くとレイラの席はなかった。同僚たちが冷ややかな視線を送ってくる。
「白兎さん、ちょっと」
困惑顔の上司に手招きされ、戸惑いながら尋ねた。
「あの、あたしの席は……」
「きみ、一体何したの。いきなり高垣管理官の秘書だなんて」
「はぁ」
チラチラと視線を寄越す同僚たち。みんなの顔が怖い。特に女性職員。
「地味に見えて、やるわよね。どうやって取り入ったのかしら」
「すでにお手付きって所でしょ」
ひそひそと声が聞こえる。
「おはよう、みなさん。ご機嫌いかがかな」
高らかな声がしたのでみんなが振り向けば、高垣翔が満面の笑みを浮かべて立っていた。噂の主の登場で、フロアはしんと静まり返った。
「なかなか出勤してくれないから迎えに来たよ。さて行こうか。秘書さん」
彼は笑顔でレイラの手を引いた。彼女の頭がズキズキと疼いた。
高垣翔の秘書として働く日々が始まった。
気合を入れて、覚悟を決めて乗り込んだのに、秘書と言っても、ただ一日行動を共にするだけだった。仕事内容はスケジュールの管理と調整、書類作り、決裁書類の受付、電話や来客対応など簡単な仕事ばかりだった。先日、銃を隠し持っていることに気付いたはずなのに、銃の『じ』の字も出てこない。
レイラはこの男の目的を測りかねていた。
ただ、この男、女性職員を見かけると必ず声をかける。そして彼女達に笑顔を振りまき、とにかく褒める。その度に、レイラは彼の背後で盛大な溜息をついた。日に日に頭痛も酷くなっていく。すれ違う女性職員がレイラに視線を寄越す。嫌悪と不機嫌と嫉妬の混じった視線が次々と突き刺さった。そのたびに、精いっぱいの笑顔を造り『お疲れ様です』と彼女達に返した。
「お疲れ様。今日も帰って良いよ」
定時になれば声をかけられ、仕事は終わる。毎日この繰り返しで、怪しいところは何一つなかった。たまに食事に誘われ、もしかしたら薬を盛られる? 拉致されるのでは? などと警戒しながらついて行くが、夕食をご馳走になり別れるだけだった。
彼が仕事以外で誰と連絡を取っているか、どこに行っているか、あちこちに盗聴器を仕掛けたり、GPSで追尾したりと注意深く動向を観察するが、これと言って尻尾を出すこともなかった。
そのうちに大きな事件を起こし、自分を犯人に仕立て上げる気なのか……そんなことばかりを考えていた。
数時間後の警察本部。
「ああ、ちょっときみ」
高垣翔はすれ違いざまに、制服警察官を呼び止めた。
「はい。何か」
呼び止められた千田リュウジは、足を止め振り返る。彼は呼び止めた相手に、鋭い視線をぶつけた。
「彼女はよく働いているよ。さすが、きみたちは優秀だね」
寛大な微笑みを浮かべたまま言う男に、リュウジは不快な表情を浮かべた。
「お前は何者だ。何を企んでいる。その演技がいつまでも持つと思うなよ」
「おやおや、警部補のきみが、警視の僕にそんな口の利き方をしてもいいのかい?」
高垣翔は、右手を動かし、リュウジの制服左胸にある階級章を人差し指で押した。階級章はその名の通り、警察官の階級によって、色や棒で区別されているバッジのようなものだ。
「交通部の千田リュウジくん。まぁ、僕は細かい事を気にしないから、良いけどね」
リュウジは自分の左胸を指さす男の指を払いのけ、鋭い目を一層細めて顔を近づけた。
「お前、レイラを犯罪に利用するつもりか」
凄味のある声で言うが、高垣翔は気にしないというように微笑んだ。
「利用だなんて、穏やかじゃないね。きみは彼女の何? ナイトのつもり?」
「あいつには、ナイトなんか必要ない」
リュウジはそれだけ言うと、彼に背を向けた。
「今は何もしないよ。今はね」
リュウジの背中を見つめながら、ショウは呟いた。
そんな日が続いた中、レイラには一つだけ、気になることがあった。
秘書を初めて数週間経った頃。高垣翔の家に書類を届けた日のことだ。向かったのは前に訪れたマンションではなく、彼が住所として登録している警察官舎。彼の生活拠点はこちらの警察官舎だった。
あれから、あのマンションには出入りしている様子は見受けられない。何のためにマンションを借りているのか、目的は分からないままだった。
本来ならば、玄関チャイムを鳴らし、相手が出てくるのを待つべきだろうけれど、彼の素性に疑問を持っていたので、屋上からロープを使ってベランダに降り、そっと室内を伺った。
彼は部屋の中で、椅子に腰かけ何かを眺めていた。写真だろうか。とても真剣な顔をしている。光りの加減で写真自体は見えない。もう少し、もう少しで見えそうなんだけど。ゆっくりと身体を伸ばす。すると、じっと写真を見ていた彼が突然、顔を上げた。しまった、目が合った。
彼はさっと写真を隠して、無表情でこちらに向かって歩いてくる。いつものような笑顔はない。
「白兎さん、変わったところに立っているね。玄関はそこじゃないよ」
いやいや、知っているよ。突っ込むところはそこじゃないでしょ。
「ええと、管理官こんばんは。書類を届けに来て……」
レイラはしどろもどろに答えた。頭の片隅で、万が一の場合を想定する。この狭いベランダで戦うことが出来るのか。いや、警察官舎で銃撃戦はまずい。飛び降りて、逃げた方が良いか。いや、それも目立つ。ここだと他に逃げ道は……。
「ああ、きみたちは玄関から入らないのかな。それ、届けてくれたんだ。ありがとう」
特に気にする様子もなく、レイラが持っている封筒を腕からひょいと抜き取った。ここ、ベランダですけど。何も突っ込まれないので、思い切って先ほど見た写真のことを聞いてみた。
「高垣管理官、さっき慌てて隠したものって何ですか?」
「何の話かな? 今日はお疲れ様。また明日ね。ああ、今度は玄関から帰ると良いよ」
全く表情を変えず、いつものように、ふんわりとした笑顔で微笑んだ。それ以上何も言えず、玄関から出て行った。
あの写真に秘密がある。高垣翔の恋人の写真かもしれない。
恋人が誰かに殺されて、復讐するために何かを企んでいるのだろうか。自分を洗脳して誰かを殺させようと考えているとか、殺した後に罪を被せるつもりかもしれない。彼は、銃の腕を見込んでレイラを秘書にしたようだった。
レイラはリュウジに連絡を取り、写真の件を報告した。
「俺も一緒に捜す。お前一人だと何かあった時に援護できない」
ちなみにリュウジは今、レイラの部屋にいる。
「大丈夫。もし見つかった時、一人の方が言い訳し易いし。リュウさんがいたら、ややこしくなるよ。それに、もし見つかっても、あの人はむやみに撃ってきたりはしないよ」
「見つかることを前提に話すな。それと、油断するな。最悪の場合は始末しろ」
「分かってるって」
「ったく本当に分かってるんだかどうか」
リュウジの手が伸びて、レイラの額を指で小突いた。
「いたっ。もう、大丈夫だって。絶対に上手くやるから、信じてよ。頭痛いのに、小突くなんて信じられない」
「まだ、痛むのか」少しだけ心配そうな声色で聞かれ、顔を覗き込まれた。
「あいつの秘書になってから、日に日に酷くなるばかりだよ。女子職員を見かければ、声掛けるし、みんなには睨まれるし、本当嫌になる。あー頭痛い」
レイラは顔を顰めて頭を押えた。
「俺もあいつについて調べてみた。高垣翔は実在する。戸籍も本物だった。田舎に母親が一人いて、電話で確認した。母親とは疎遠になっているようだが、本人で間違いないだろう。数年前にふらっと帰った時、使っていたという櫛を送ってもらって、毛髪を照合した。ここにいる『高垣翔』の物と一致したんだ。あいつには表面的な友人は何人かいるが、全員、問題のない一般人だった」
「本当に普通の人なんだよね。ちょっと軽いけど。アレが全て演技だとしたら、背後にいるのは、どんな奴らなんだろうね」
ほうと溜息をつくとリュウジの鋭い視線が刺さった。
「それを調べるのが、お前の任務だ」
また小突かれそうになったので顔を避けると、彼は腕を回して、身体を引き寄せた。黒い瞳は鋭く尖り、微かな翳りを帯びていた。ああ、この眼。この眼が好きなんだよね。そうレイラが思っていると、唇を塞がれた。頭はまだズキズキと痛んだ。
それでも、彼女は幸せだった。幸せなはずだった。幸せなのに何故だろう、最近どうしようもないほどの焦燥感を覚えていた。『何か』が襲いくるような、不思議な感覚がやって来た。きっと、この頭痛のせいだ。『何か』が襲ってきても決して逃げてはいけない。『何か』と立ち向かわなければならない。レイラはそう自分に言い聞かせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます