第4話 彼女と彼➀

 警察本部の裏に、3階建ての古びたコンクリート製の建物がある。建物の各階には4つずつドアがあり、それぞれが独立した住居になっていた。この建物は警察官用の宿舎。その一室、2階の右端がレイラの部屋だ。


 主に独身や単身赴任の人が居住する建物内部は、畳敷きの6畳の部屋と併設された3畳ほどのキッチン、バス、トイレがあるだけの簡素な造りになっている。畳の日焼けはひどく、所々がささくれ立っている。キッチンの床は軋んで、歩くたびに音がする。ステンレスの流し台はほとんど光沢を失って、水道から出る水は濁っていた。バスというよりお風呂場という名がぴったりなそこには、プラスチック製で塗装の剥げた水色の浴槽に、簡易なシャワーがついた小さな洗い場があるだけだ。最近やっと和式から洋式になったトイレも一応備わっている。

 お世辞にも綺麗とは言えないうえ、本部の敷地内にあるこの建物だが、彼女が完全にプライベートでいられる貴重な場所だった。


 ここに連れてこられた10年前は、落ち着くことが出来なかった。しかし、今はすっかりこの場所で過ごすことに慣れてしまった。逆にこの場所を出て、どこかで暮らす自分が想像できない。

 部屋に入り、まずはシャワーを浴びる。部屋着に着替えて、部屋の隅にあるパイプベッドの前に立った途端、急激に疲労を感じた。

 それでも、スマホを取り出し、彼の番号をコールする。レイラの彼、千田リュウジは同じ建物、2階の左端に住んでいる。


「あいつの正体掴めそうか」

 2回目のコールで出た彼は、開口一番尋ねてきた。リュウジはいつも単刀直入。レイラは、先ほど起こった出来事を手短に説明する。

 対象者である高垣翔は、レイラがただの警察官ではないと知っていた。秘書になれと告げられた。監視しやすいから秘書の話は受けたと最後に締めくくった。


「レイラ、気を付けろ。油断するなよ。それと」

 彼の低い声が少しの間を置いた。

「あとで、部屋に行く」

「……うん、わかった」

 思わず顔がにやける。先ほどの疲れも忘れ、レイラは徐に部屋の掃除を始めた。


 10年前リュウジに保護された時、レイラと似たような容姿の捜索願や行方不明届けは全くなかった。しばらく病院で色々な検査をしたが、脳に損傷もなく他の異常がないと分かってもレイラの記憶が戻ることはなかった。

 医師は「大きな精神的ストレスや、心的外傷が原因となって記憶を失ったのではないか」と結論付けた。マスコミに公開して、情報提供を呼び掛けたほうがいいのではという意見もあった。だが、保護された状況などから見て、よからぬ人間から逃げ出したこともあるので様子を見ようとリュウジが言い、とりあえずは胸に下げていたシルバーペンダントに記されていた『レイラ』を名乗った。


 レイラは鏡を見せられても、自分の顔がこうだったかも思い出せない。一般的な知識や単語は覚えていて日常生活に支障はなかったが、まず住む家がなかった。

 エイジ班長が無国籍の子供か、人身売買目的で外国から連れて来られた子供かもしれないと推測して、これも何かの縁だと記憶が戻るまで警察本部裏にある宿舎に住めるように手配した。

 同じ建物内に住むリュウジは、頻繁に様子を見に来てくれた。

とは言え、彼は無口だ。未だに何を考えているか分からない時もある。宿舎に住み始めた最初のうちは、ドアを開けると『大丈夫か』の一言だけで、レイラが何も答えないうちに帰ったり、アンから預かったと紙袋に入った新しい洋服や下着を持ってきてくれたり、トウリからだと食料の入ったスーパーの袋を押し付けて帰っていった。

 頻繁に来る割には、愛想のない人だなとレイラは思っていた。


 それでも、何も分からず情緒不安定になることが多いレイラに、時々はじっくり付き合ってくれて、自分の生い立ちを話してくれたり、慰めてくれたりする日もあった。

 リュウジは赤ん坊の時、病院の玄関前に置かれていたらしい。だから、彼も両親の顔を知らない。彼はずっと孤独だった、頼る大人がほとんどいない状態で、ずっと生きてきたと話してくれた。


「あたしと同じだね」

 ひとしきり彼の話を聞いたレイラが言った。

「は?」

 リュウジは怪訝な顔でレイラを見た。

「ないものばかり。あたしと同じだ」

「そうだな」

 そう言って、リュウジはレイラの頭をくしゃりと撫でた。


 乳児院と児童養護施設で育った彼を、エイジ班長がスカウトしてTNTに入った。ちなみにリュウジの苗字、千田も班長がチーターのようだからと勝手に決めたようだ。

 リュウジは子供の頃から頭が良かった。そして何より喧嘩がめっぽう強く、街を歩くガラの悪い不良たちでもさえ、彼を見かけると避けていた。その辺は今と変わらない。と、リュウジと同じ児童養護施設出身のアンは言っていた。


 記憶のないレイラが唯一、信頼できたのは、廃屋で見つけてくれたリュウジだった。あの時、躊躇せずレイラの身体を抱き上げて、綺麗な空を見せてくれた彼。どこまでも続く深い青色の記憶は、空っぽだったレイラの中に今でも残っていた。


 はじめは保護者のようだったリュウジは、次第に兄のような存在に変わった。そして、気がつけば、レイラは彼に心を奪われていた。彼はレイラにとって大切な人になっていた。


「あたし、リュウさんが好きなんだと思う。これって愛かな」

 リュウジへの想いに気が付き、日々悩んでいたレイラはある日、アンに相談した。彼女はレイラの顔をじっと見つめて、

「それってインプリンティング、刷り込み効果じゃない? 記憶のない状態で初めて会ったリュウジを、パパだと思っているみたいな。私は愛じゃないと思うけどねぇ。ほら、記憶がない空っぽの状態で、親切にされたから依存しているだけとか。こんな特殊な環境で頼りになる存在だから、特別に想っているだけとか」と持論を述べた後、一笑に付した。


 確かに最初はそうだったかもしれないとレイラは思った。リュウジは空っぽの自分に色々与えてくれた大切な人だ。任務中、頼りになる仲間であることには間違いない。

 けれども時が経つにつれ、それ以上の気持ちが沸き上がってきた。彼の真剣な眼差しに心臓がキュッとなるのは何故だろう。抱きしめてもらいたいと思うのは何故だろう。滅多に笑わない彼がふと笑顔のようなものを見せた時、心臓がドキリと音を立てるのは何故だろう。ずっと一緒にいたいと思うのはどうして?


『愛とは心理学・生物学的にそれぞれ定義が違うが、結局は脳内物質の放出量による。恋愛初期にはアドレナリン、ノルエピネフリン、ドーパミンが大量に放出される』


 ふと脳裏にそんな言葉が過った。リュウジを思った時、レイラの脳内にはそれらの脳内物質が大量に放出されている。それだけは分かった。


 レイラは保護された時から、人並み外れた頭脳と身体能力を持っていた。数か国語の言語も話せた。そんな能力を見込んで、エイジ班長がチームに入れてくれたのだ。

リュウジの傍にいたかったレイラは喜んでメンバーになった。高校在学中にメンバーになったアンと、少し前にメンバーになったばかりのトウリも快く仲間にしてくれた。リュウジは仲間になったレイラに銃の使い方や、敵との戦法など様々な事を教えてくれた。いろんなことがあったけれど、ここまで強くなったのは彼のおかげだった。


 けれど、何年経ってもリュウジはレイラを妹のように扱った。レイラが、彼を思う気持ちをそれとなく伝えてみても何も変わらなかった。

 この気持ちをぶつけたいのに、もし拒絶されたらと思うと怖かった。明らかにレイラを子供扱いしている彼に、気持ちを伝えられない日々が続いた。


 あれは桜が満開に咲いていた頃の話。

 退屈をしていたレイラが、どこかに行きたいと非番のリュウジにせがむと、近くの城山に連れてきてくれた。彼は白いTシャツの上に白いシャツを羽織り、デニムとラフな格好だ。いつも見慣れた制服姿でも真っ黒いスーツ姿でもない姿が新鮮で、レイラはいつも以上に緊張した。

 山の上にそびえ立つ城の周囲には桜の花が咲き乱れていた。城の天守閣を、満開の桜が彩っている。大勢の人が木の下で写真を撮ったり、ビニールシートを広げて食事をしたり、それぞれが楽しんでいた。

 その様子をテレビカメラが取材していた。

 桜を眺めながらしばらく歩いているとリュウジがふと足を止めた。目の前には老木がある。その地面に、桜の花びらの絨毯が広がっていた。花びらが敷いたピンクの絨毯が眩しかった。

「どうだ、少しは気分転換できたか」

 レイラは桜とはこんなに綺麗なものだったのかと思った。もしかしたら記憶を無くす前は、桜を見た事がなかったのかもしれない。保護された先の病院で、草木の写真を見せられた時、桜の名前は知っていた。ほかの植物の名前も答えることが出来た。けれど、桜がこんなに綺麗だったなんて知らなかった。レイラが覚えている桜は、まるで図鑑の一部のようだったのだ。


「こんなに綺麗なさくらを見たのは初めて。リュウさん、ありがとう。大好きだよ」

 強い風が吹き、花びらが宙を舞う。あまりの美しさに息を飲んだ。桜が気持ちを、後押ししてくれているような気がした。まっすぐに彼を見つめた。

「あの、あのね。リュウさんのこと、大好きなの。あたし、リュウさんの妹じゃなくて、恋人になりたい……だめかな」

 どさくさに紛れて告白すると、それまで無表情だったリュウジが険しい顔をした。嫌われたと思い、いたたまれなくなったレイラが俯いた次の瞬間、突然、彼の胸元に引き込まれた。 レイラは白いシャツに顔を埋めていた。リュウジの匂いがした。

「俺もお前が好きだ。レイラ」

 耳元に響く低い声。とくとくと、少し早い心臓の音。彼の身体の温かさ。しっかりと自分を引き寄せる強い腕が、その腕のもたらす拘束が安堵を生んだ。レイラが顔を上げると、彼と目が合った。

「お前がどこの誰であろうと、俺はこの先、お前を離す気はない」

 レイラは一度目を閉じて、しっかり彼を見つめなおした。

「リュウさん……」

「冷えてきた。そろそろ帰るぞ」

 リュウジは身体を離し先を歩き始めた。レイラは慌てて追いかけて彼の腕にしがみついた。

 その数日後、レイラはリュウジと付き合い始めたとみんなに話した。

 エイジ班長が二人の微妙な空気に気がついて、リュウジがいない時に聞いたのだ。

レイラの報告を聞いたアンは「だからそれは、インプリンティングだって。まぁ、レイラがいいなら何も言わないけどさぁ。リュウジって外見は良いけど、中身がアレだよ。きっと苦労するよ」と呆れ、トウリは「リュウジってロリコンだったんだ」と笑った。エイジ班長は「まぁ、対象者と色恋沙汰になるよりはいいだろう。ほどほどにしておけよ」とよく分からないアドバイスをくれた。

 レイラがリュウジに出会って5年経っていた。


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