第3話 彼女の仕事

「えっと、対象者がいる警備部は8階か。ちょっと様子を探ってみようっと」


 警察本部は10階建てで、各フロアに警務、会計、刑事、交通、生活安全、警備などの部門がある。対象者である警備部の管理官に配属されている警視、高垣翔がいるのは8階のフロアだ。


 エレベーターを降り8階フロアに立つ。制服姿、おまけに警務部で警察官の身上、勤怠管理などを行っているレイラは、警戒されることもなく廊下を歩いた。


「白兎さん。あの書類、ちょっと待ってください。明日には提出しますから」

 少し歩くと、顔なじみの警察官に声をかけられた。彼は警備部で事務的な仕事を任されている人間だ。

「お願いしますね。そういえば新しく配属された高垣管理官のデスクはどこですか? 健康管理カードの提出がまだなんですけれど」 

「ああ。管理官ならほら、こっちに来ていますよ。変わった人ですから、白兎さんも気を付けてください。それじゃあ」

「ええと、気を付けるって」

 彼の言っている意味がよく分からないまま、周囲を見回す。


 視界に入ったのは、前から歩いてくる制服姿の男。身長175㎝。やせ型。髪はふんわりとした茶髪。色白で、端正な顔。高垣翔だ。ちょうど、給湯室から数人の女性職員が出てきて、彼とすれ違う。女性職員は足を止め、高垣翔に挨拶をした。

 すると彼は振り返り、彼女達に微笑んだ。


「おはよう、今日も可愛いね」

「またぁ、管理官は冗談ばっかり」

「それは心外だなぁ。僕はいつも本気だよ。おや、こっちのきみは髪型変えた? とても似合っている」

「気づいてくれたんですか?」

「あたりまえじゃないか。僕はいつもきみたちを見ているよ」

 女性職員からはきゃあと歓声が上がる。

 

 何なんだ。気障なこの男は。軽い、軽すぎる。口の上手い結婚詐欺師みたい。一番苦手とするタイプだ。これのどこが切れ者なんだ。見ていると頭痛がしてきた。

(あたしが好きなのは、無口でぶっきらぼうで、いざとなったら頼れて……それってそのまんまリュウさんじゃん)

 レイラは大好きな彼の顔を思い出して、自然と頬が緩んだ。


「こんにちは。警務部の白兎レイラさん」

 気が付けば、目の前に高垣翔がいた。あまりの近さに息を飲む。全く気が付かなかったのだ。

「な、なんなんですか?」

 思わずレイラの声が裏返った。顔が至近距離にある。それにしてもこの男は、建物内にいる女性の名前を全て知っているんじゃないだろうかと、レイラは思った。


「いや、何でもないよ。仕事、頑張りすぎないでね」

 高垣翔はふっと微笑んで、レイラの肩をポンと叩くと去って行った。

「なにあいつ。絶対に怪しい、それに胡散臭い。あいつの正体、絶対に暴いてやる」

 レイラは拳を握りしめた。


 警務部に戻ると、上司から声をかけられた。

「白兎さん、午後から総務部の応援を頼めるかな? 見学の案内係なんだけど」

「案内するのは小学生ですか?」

「ああ、小学生80人と引率の先生だって。急に悪いね。広報の子が早退したらしくてさ。総務部から直々にご指名があったんだ。以前に一度やってもらったのが、好評だったみたいだよ。悪いけどよろしく」

「分かりました」


 見学と言うのは、一般の人があらかじめ予約して、警察本部庁舎内を見て廻ることだ。小学校の社会科見学に利用されることが多く、だいたいのスケジュールは決まっていた。  

 今日もまずは、通信指令室と呼ばれる110番を受信する部屋を見たあと、各フロアの入り口まで行き、仕事内容の説明を聞いたり質問したりする。そして鑑識の指紋採集をやってみたり、白バイやパトカーに触ったり乗車体験をしたりして、最後に県警音楽隊の演奏を聞いて終了する予定だった。


 案内係のレイラは、引率の先生と一緒に各フロアを回り、それぞれの課の紹介や勤務内容を説明し、質問があれば答えていた。小学生たちは、初めて見る警察施設の内部に興味津々といった様子だった。中には、置いてある装備品を勝手に触って、先生に怒られている男子生徒もいる。

 交通部のフロアを通った時、交通規制課の受付前には申請書類を持った人が並んでいた。制服姿のリュウジが黙々と仕事をこなしているのが見える。制服姿もかっこいいなぁとにやけていると、一人の女の子に「あのぉ」と声をかけられた。にやけたのがバレたのだろうかと強張った顔で見つめると、彼女は恥ずかしそうに口を開いた。

「私、お姉さんみたいな警察官になりたいんです。お姉さんは警察の事を何でも知っていて、すごいです」

 彼女は見学の最初からレイラの話を真剣に聞いて、熱心にメモを取っていた。


「そっか。じゃあ勉強も運動も頑張って、立派な警察官になってね」

 にやけ顔を見られたんじゃなくて良かったとホッとしていると、彼女がまた「あのぉ」と言った。


「私と握手してもらっても良いですか?」

「え?」

 ごくあたりまえに掌が差し伸べられた。勿論だが、この子には何の裏も計算もない。

「ええと、ゴメンね。あたしの手は汚れているから……」


 銃を持ち、多くの人を傷つけてきた自分の手。つい先日の銃撃戦が脳裏を過った。  目の前にいる純粋な子に触れさせるわけにはいかない。


「お姉さん、何か触ったんですか? ペンとかついたんですか?」

 女の子は不思議そうな顔でレイラの手を見つめた。

「そ、そうなの。汚れているのよ。貴女の手についちゃうといけないし」

 やんわりと断るが、「お姉さんの手、綺麗ですよ?」と彼女はレイラの右手を両手で握りしめた。柔らかくすべすべの手に包まれて、レイラは思わずドキリとした。

すると、それを見ていた他の生徒達が私も僕もと握手を求めてきた。

「こら、あなた達。警察のお姉さんが困っているでしょう。やめなさい」

 引率の教師が生徒達を窘める。

「いいんですよ。こちらの方が元気をもらえました。みんな、今日はありがとう」

 次々に伸びて来る手と握手を交わしながら、レイラは微笑んだ。当たり前の生活とはこんなにも心地良いものなのか。彼女達の安寧な未来のため、あたしにはするべきことがあるんだと彼女は心の片隅で思った。


 退庁時間。

 対象者である高垣翔はこの後、本部内での予定がない。まっすぐ家に帰るのか、それとも誰かと会うのか。レイラは彼の行動を監視することに決め、目立たないように庁舎の外で高垣翔を待った。

 30分ほど待つと、高垣翔が本部の正面から一人で出てきた。私服に着替えた彼は、ネイビーのリネンシャツとチノパンというスタイルだ。真面目過ぎず、緩すぎず、まぁ似合っている。いや、そんなことはどうでもいい。これから誰と逢うのか、本当の顔を見せるのか。彼の歩く方角は、記憶した住所とは違っていた。彼の住所は本部から徒歩十分の場所にある警察幹部向けの官舎のはず。だが、彼は反対方向に歩き始めた。


 レイラはそっと彼のあとをつけ、歩を進める。


 しかし、しばらくすると。

「こんばんは。僕のあとをつけて何の用かな? きみのようなストーカーなら大歓迎だけど」

 角を曲がったところで追いかければ、目の前に高垣翔がいた。彼は一度も振り向かなかった。レイラはカーブミラーや店先のショウウィンドウ、あらゆる物に気を付けて、視界の端にも入らないように、細心の注意を払ったはずだった。


「あ、高垣管理官こんばんは。あたしはこの先の書店に用があるだけです。あとなんかつけていませんから。管理官の気のせいですよ」

 レイラは素っ気なく答えた。

「ふうん、そうなんだ」

「それじゃあ失礼します」

 とにかく立ち去ろうと踵を返したが、強い力でがっちりと腕を掴まれた。

「何するんですか。離してください。セクハラですよ」

 声をあげ振り解こうとするが、離れない。この場所で争いはしたくないので、何とか離れなければとレイラは考える。


「実はね、ぼくもきみに話があったんだ。白兎レイラさん。本当のきみは何者なんだい? ただの警察官じゃなんだろう?」

 腕を掴まれたまま、何もかも見透かしたような顔で微笑まれた。この笑顔の裏に何かがある。カマをかけられていると思ったレイラは、できるだけ冷静に答えた。


「えっと、あたしは警務部の警察官です。本当のって何ですか? 言っている意味が分かりません。とりあえず手を離してくれませんか? 痛いんですけれど」

 振り解こうとしても、びくともしなかった。掴まれた手を解く術は心得ていた。だが、目の前の男にはなぜか通用しない。じたばたするレイラを無視して彼は続けた。

「ほら、いろいろあるでしょ。警察内の特別な組織の事だよ。わかっているくせに。白戸さんは銃撃戦も得意だったりして」

「ええと、銃の扱いってSATとか、SITとかのことですか? でも、あれって刑事課や警備課の管轄ですよね。第一、うちの県はそんな呼び方じゃないし。こんな田舎の警察本部内にそんな特別な部署はないはずですし。あの、あたしのことを誰かと勘違いしていますよ」

「嘘はつかなくていいんだよ。とりあえず行こうか。僕の家に招待してあげる」

 彼は相変わらず微笑みながら、レイラの腕を引いた。


 辿り着いたのは、高層マンションの最上階。この方角だと、部屋から警察本部が良く見えるはずだ。やはり何か企んでいる。ここまで来たのだとレイラは大人しく企みに乗ることにした。


「さあ、どうぞ。そういえば、この部屋に招待する人は、きみが初めてだよ」

 玄関のドアを開けて、彼は一歩身を引いた。

「そうですか。お邪魔します」

 そう言いながら慎重に足を踏み入れた。玄関に他の靴は見当たらない。ゆっくりとヒールを脱ぎながら神経を集中させる。人の気配は感じられなかった。今はこの男一人だけのようだ。彼はさっさと靴を脱いで、先を歩き始めた。玄関を上がってすぐに真っ直ぐに伸びる廊下がある。廊下の左右にはドアがあった。バスルームなどがあるのだろう。あたしは彼の数歩後ろをついて行った。

 そっとジャケットに触れ、内側に仕込んであるエアウェイトを確認した。万が一の場合に、コンバットマグナムもバッグの中に入っている。

 数歩前を歩く高垣翔がふと足を止める。振り向いて、ふわりとした笑顔で微笑んだ。

「そうそう、できれば物騒なソレは使わないで欲しいな。あと敬語も」

「え?」

(この男、あたしの行動を読んでいる? ここで始末するべきか。いや、この男の背後にはもっと大きな組織がありそう。隙のない身のこなし。恐らくあたし一人では太刀打ちできそうもない。尾行する前、みんなに相談するべきだった。とりあえず、今は大人しくしておこう。隙を見て連絡すればいい)


「まぁ、そう緊張しないで」

 そう言って廊下のつきあたりにある部屋に招き入れられた。部屋はごく普通のワンルームだった。ソファとローテーブル、ベッドがあるだけの空間。ソファに座り、周囲を観察する。実に殺風景な部屋だった。テレビもない。オーディオもない。本棚もない。仲間との連絡所のようだ。

 そんなことを考えていたら、併設されたミニキッチンにいた彼が、マグカップを2個持ってやって来た。


「どうぞ。冷めないうちに飲んで。アプリコットティだよ」

 微笑みながら、ローテーブルの上にマグカップを置いた。確かにいい香りがするけれど、こんな怪しいもの誰が飲むか。そう思い、マグカップを一睨みして尋ねた。

「あの、あたしをここに連れてきた目的ってなんでしょうか」

「だから、その敬語。もっとフランクに話してよ。それに緊張しすぎだよ。お嬢さん」

 クッと小馬鹿にしたように笑われて、レイラは思わずカッとなる。それじゃあと深呼吸を一つして、冷静な口調で尋ねた。

「それじゃあ聞くけれど。この部屋は身上書の何処にも記載されていない。あなたの住所は、本部近くにある上層部向けの官舎だった。その名前、高垣翔も偽名じゃないかとあたしは睨んでいる。この場所はいわば、秘密の隠れ家のようなもの。あなたは何か大きな組織に繋がっているんじゃないの?」

 レイラはじっと彼の目を見た。彼もレイラを数秒見つめてからフッと視線を外した。

「そうかもしれないね。さすが僕の周辺をよく調べている。実際、きみがこの部屋に来た初めてのお客さんだよ」

「だから、そうじゃなくて」

「確かに。一人暮らしの男が女性を部屋に招き入れる。それがどう言う意味か分かるよね?」

 高垣翔はぐっと距離を縮めた。顔が近づいてレイラは思わず身構えた。

「ちょっと、何の真似? ふざけないで」

 思わず身を固くしたレイラを見て、彼はまた嬉しそうに微笑んだ。

「なんてね、冗談だよ。実は、白兎さんを僕の秘書にしたいかなって思って。その話をしようとここに呼んだんだ」

「は? 秘書?」

 いきなり飛び出した秘書と言う単語に、思考回路が追い付かない。秘書って、一般的な秘書なのか。それとも何かの隠語で、仲間になれってことなのだろうか。 

「あの。秘書って社長にくっついて、スケジュール管理や書類の整理をするあの秘書だよね」

「そうだよ。僕のポストだと、秘書を一人つけることが出来るらしい。だからそれを頼もうかなって。きみは優秀だ。もちろん裏の顔でも。そうでしょ、どんな銃でも使いこなすレイラさん」

「だから、あたしは……」

「いいよ、隠さなくても。僕には全てわかっているから」

 組織の存在は警察のトップでも、一部の人間しか知らないと聞かされていた。

「あなた、誰なの」

 レイラは素直に尋ねた。

「さぁ、誰だろうね。とりあえず僕の要件は終わったよ。明日から僕の秘書として働いてもらうから。警務部には話を通しているし。ああ、冷めないうちに飲んで、って警戒するか。何も入ってないんだけどなぁ」

 高垣翔は残念そうな顔でマグカップを覗き込んでいる。

「あの、とりあえず帰ります」

「ああ、そう。じゃあ明日から宜しくね」

レイラが立ち上がると特に気にするふうもなく、彼も玄関に向かった。部屋を出る前に、ローテーブルの下に小型盗聴器を仕掛けた。

「そうだ、家まで送って行こうか」

「結構です」

「まぁそうだよね。キミにボディガードは必要ないか」

 見送られマンションを出た途端、どっと疲労が押し寄せてきた。あんなやりにくい対象者は初めてだった。


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