第5話 彼女と彼②

 レイラが昔を思い出しながら掃除をしていると、玄関のチャイムが控えめに鳴った。ドアを開けると、黒い半袖Tシャツにデニム姿のリュウジが無言で部屋に入って来た。

 彼は6畳の和室に入ると、ローテーブルの前に座った。

「久しぶりだね。リュウさんがここに来るの」

 レイラは冷蔵庫から缶ビールを取り出して、彼に手渡す。

「そうだな」

 リュウジは抑揚のない声で返事をして、缶ビールを受け取った。プルタブを開けて、一気に喉へと流し込む。

「最近、忙しい? 交通部のフロアを通りがかったら、人だかりができていたんだけど」

「まぁな。それよりも、この前は助かった」

 何の話だろうと首を傾げ、記憶を手繰りよせる。あの銃撃戦かと合点がいき、微笑んだ。

「ホントだよ。あたしがいなかったら、リュウさん死んでたから」

「ああ、ここにはいなかっただろうな」

 軽口をたたきあうけれど、お互いにいつ命を落としてもおかしくない状況に置かれていることを分かっていた。もしあの場で命を落としても、それは決して表には出ない。自分達はそういう立ち位置だった。


 レイラは今でも、初めて人を撃った時の感覚を覚えている。訓練ではなく、初めての任務で彼女は人を殺した。撃ったのは人形ではなく人間。銃を構えた時、足が震え、手も震えた。けれど、撃たなければ殺される。そう自分に言い聞かせて引き金を引いた。レイラの目の前で絶命した相手は、名前も知らない外国人だった。震えの止まらないレイラを、リュウジがそっと抱きしめてくれた。あの時、彼の腕の中で、ここがあたしの居場所だと、ここしかないんだとレイラは実感していた。


「それにしても、制服姿のリュウさんかっこいいね。でもさ、その前髪長すぎない? 何も言われないの?」

 彼の漆黒の前髪は鋭い目元まで伸びている。レイラは手を伸ばして黒い髪に触れたが、不意に頭痛がしてこめかみを押える。


「調子が悪いのか?」

「ううん、大丈夫。最近、頭痛がひどくて。疲れているのかな」

ここ最近のレイラは酷い頭痛に悩まされていた。頭の中心がずきずきと痛いのだ。

 そんなレイラを見て、リュウジはポケットからこぶし大の紙包みを出し、彼女の掌に載せた。

「なに?」

「お前にやる」

 それだけ言って彼は缶ビールに口をつけた。怪しげなものでも寄越したのではと、レイラがそっと紙包みを開ける。中には青く光る綺麗な石が入っていた。

「わぁ、綺麗な色。あの日に見た、空の色だね」

「捜査中に露店で買った。というか買わされた。ラピスラズリというらしい。気休めにしかならないが、強運を導いて頭痛にも効くと言っていたから。レイラにやるよ」


 露店で買わされた? 強運を導く? いつも隙がなく、神仏も信じないようなリュウジから程遠い単語が出て、思わず吹き出した。

「リュウさんが怪しい露店の店主に石を売りつけられるところ、見たかったな」

「言っておくが、これは瑠璃色。群青色とは少し違う。受け売りだが、持ち主が本当の意味で成長できるように試練をあたえるらしい。越えなくてはならないことを、教えてくれると言っていた。お前に必要だと思って買ったんだよ」

 リュウジはちょっとムッとした口調で言った。

「そうなんだ。あたしの試練か。きっとあたしの過去なんだろうね。どこで生まれて誰と暮らしていて、どうして記憶を無くしたのか、家族はどんな人だったとか。これを持っていたら、あたしがどこの誰かわかるのかな。ありがとう。大切にする」

 しげしげと石を見つめていたら、リュウジが真顔で顔を覗き込む。鋭い瞳とぶつかる。

「なに? どうしたの」

「今日は本当に無事だったのか。不都合があればアンと交代しろ」

「ああ、高垣翔ね。確かに部屋に連れ込まれたけど、何もなかったよ。でもね、あれは怪しすぎるよ。あたしが色々と探っていることを理解したうえで、秘書にするなんて、何を考えているんだろう。でも、なんでそんなに気になるの? 今までだって上手くやってきたじゃない」

 今まで何度も身分を隠して対象者に接触していた。相手が男の場合、アンが色気たっぷりで近づくことが多かったけれど、レイラだって男に色仕掛けを使ったことがある。


 この前も、ある名前の知れたお偉いさんが女子高生相手に何度も買春をしている事案があった。アンでは無理があると言われ(彼女はかなりむくれていたが)レイラが女子高生に扮して対象者の身柄を確保したのだ。マスコミに知られるとまずいという理由でうちの班にお呼びがかかり、結局、あの事件は今でも表に出ないままだ。

 とにかく今までも変態趣味のおじさんにも、ちょっとイケメンの大学教授にも任務を遂行してきたのに、リュウジが心配したことなんて一度もなかった。


「いや、なんとなく。嫌な予感がした」

 彼はぼそりと呟き、缶ビールを飲み干した。

「嫌な予感? 確かにあれは油断ならないね。無類の女好きだし。何かあったら、ちゃちゃっと始末して自分の身を守るから大丈夫だよ。それに、あたしの好きな人、知っているくせに。いちいち言わないとわかんない?」

 レイラが苦笑いした次の瞬間、強い腕に抱きしめられた。


「リュウさん?」

「俺は己惚れて良いのか」

 逞しい腕に抱きしめられ、耳元を掠める彼の声にレイラの顔が赤くなる。

「そんなこと言うなんてズルいよ。あたしには……リュウさんしかいないのに」

 吐息と共に吐き出した言葉に、リュウジがピクリと震える。

「おい、煽んなよ……」

 彼の口から漏れるその声も、酷く掠れていた。見つめあう瞳の中には、お互いしかいない。当たり前のように顔を寄せてキスをした。絡み合う熱と溶け合う吐息の中で、二人の甘い夜が始まろうとしていた。


 翌日、リュウジが帰った後。出勤する前に制服に着替えようとして、ふと気づいた。鏡に映した白い肌が、至るところ赤くなっている。昨日の出来事を思い出して、レイラは一人で赤面し、その一箇所にそっと触れてみる。

「なんだかあたし、リュウさんのモノって感じだなぁ」

 それも悪くないかも呟いて、鼻歌混じりで玄関のドアを開けた。

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