第15話 逃げて、追われて、見つかって

 あれが初めて見た海だった。

 集落が島の中だと気が付いたのは最近だ。記憶が戻ったレイラは、ショウと手を取りながら逃げる夢を見た。


 そして思い出した。あの日、犯人の一人が自分たちを逃がしたのだ。

「ねぇ、どうしてこんなことをするの? あたし達が何をしたの?」

 犯人の一人と対峙した時、レイラは黒ずくめの人間に聞いた。何も知らないまま殺されることだけは嫌だった。隣にいたショウは黙ってレイラの前に立った。犯人の銃口はこちらに向けられていた。

 しばらく黙っていた犯人は銃を下ろし、ゆっくりと口を開いた。男の声だった。

「このまま振り向かずただ走れ。島の突きあたりに崖がある。そこから飛び降りろ。運よく海に飛び込めたら助かるかもしれない。理由は俺も知らない。もしも生き延びたら自分で見つけろ。早く行け、5秒待ってやる。行かないと撃つ」

 

 ショウに手を引かれ通り走り続けると、集落を囲む高い塀が粉々に壊されていていた。その先で二人を待ち受けていたのは、眼下に広がる海だった。本で読んだことはあるが、海を見たのは初めてだった。何処までも続く濃い青。目を凝らして視界に入ったのは、大小の島々。ここからどうやって逃げれば良いのか。

 慌てるレイラに、ショウは冷静な口調で言った。


「これは瀬戸内海だね。ここには確か、大小あわせて3000もの島があるはずだよ。無人島や、周囲数メートルしかない小さな島も存在する。その中で比較的大きな島に、僕たちは住んでいたようだ。周囲から隔離されてね。瀬戸内海は潮の干満差が大きいんだ。ここの潮流は極めて強い。だから、万が一の場合も逃げ出すことが出来ない。泳いだこともない僕たちなら尚更ね」

 一呼吸おいて、ショウは続けた。

「でも、逃げなきゃいけない」

 レイラは眼下に広がる海を見つめた。黒い波がぶつかり合っている。見るだけで飲みこまれそうになり、足が竦んだ。

「大丈夫、僕たちならきっとできる」

 二人は手をしっかりと繋いだまま、真っ逆さまに飛び込んだ。初めての波を全身に受けて、気が付けば手は離れていた。レイラは夢中で手足をばたつかせる。口内に入る塩分の濃さに驚き、むせそうになる。それでも力を抜くと体が浮くことに気づき、少しずつスムーズに進めるようになった。次々に襲ってくる波を潜り抜けながら、身体中の筋肉をフル稼働させ、なんとか岸まで泳ぎきった。

「ほら、出来たでしょ」

 先に陸に着いたショウが、微笑みながらレイラを引き上げた。        


 レイラとショウは瀬戸内海に浮かぶ大きな島にいた。何処にいても潮の香りがほんのりと漂ってくる。あの島まではあと少しの距離まで来ていた。またあの島に戻る。そう思うと、レイラの心境は複雑だった。島に行けば、嫌でも惨劇を思い出す。けれど、行かなければ何も始まらないのだ。


「ねぇ、また泳ぐの?」

 レイラはちょっと嫌そうに尋ねた。


「レイラは泳ぐのが嫌いみたいだから、止めておくよ。どこかで小型ボートを調達しよう。島のあちこちに係留された個人所有のボートがあったから」

 二人は金髪のウィッグを被り、カラーコンタクトで目の色を変えている。大きいサングラスをかけて、見るからに怪しい外国人カップルを装った。日本人だと気づかれないように、ずっと数か国の外国語を織り交ぜながら会話している。

 すれ違う人々が、訝し気に二人を見ていた。


「それにしても目立ちすぎるでしょ。この格好」

「目立つ方が、意外にバレないと思うよ」

 サングラスをずらし、ショウがウィンクをした。


 まずは一番近い島まで定期船で渡った。

「ここから集落があった島までは、交通手段がない。夜になってからボートで渡ろう」

 二人は観光客を装って人込みに紛れた。この島は自転車の聖地とかで、気候の良いこの時期は観光客が多い。島の周囲をサイクリストたちが、爽快に駆け抜けて行った。

 しばらく島内をうろついていると、ふと気がついた。

「ねぇ、あたしたち誰かにつけられているよね」

「ああ、そうみたいだね」

 明らかに誰かにつけられているのだ。振り向くと、それらしい人物は見当たらない。けれども、ずっと視線を感じる。それはショウも同じようだった。


「どうする? 路地に逃げ込んでから振り向いて、返り討ちにする?」

「相手が何人いるか分からないんだ。凶器を持っているかもしれない。ここで騒ぎを起こしたくない。とりあえず逃げよう。走れる?」

 二人は同時に駈け出した。案の定、背後から同じ速度の足音が聞こえる。狭い路地を左右に曲がり、ただ走った。

 観光地といえども、少し離れれば、柑橘類が生る小高い山や畑ばかりだ。背丈が生い茂る草の間を通り、真っ暗なトンネルを抜け、何とか追手から逃れた。

 逃げた先は、人気のない工事現場。二人は工事現場に放置されていた土管の中に座り込んだ。

「これだけ変装したのに、気付かれたのかな? 通報されているかも」

「応援を呼ばれて島を包囲されたら、簡単には出られなくなる。集落へ行く事は諦めて、まずは場所を移動しよう」

 集落があった島に行くことは諦めて、とりあえず次の定期船で近畿地方へ逃げることにした。


 二人は変装を解き、姿を元に戻した。帽子を目深に被り、人目を避けるように本州へ向かうフェリー乗り場まで行く途中だった。


「おい待て、レイラ」

 聞き覚えのある低い声がした。レイラが振り返れば、黒いスーツ姿の男が立っていた。

「リュウ……さん……」

 彼が探っていた任務は無人島での薬物製造だった。島の場所は瀬戸内海だったのかとレイラは気が付いた。

 普段は冷静なリュウジの瞳は感情を露にしていた。彼は憤りに打ち震えていた。ショウがそっとレイラの前に立った。

「お前は班を裏切り、対象者と姿を消した」

「ごめんなさい。リュウさんを、みんなを裏切って本当にごめん」

「レイラから離れろ、高垣翔。この場で殺してやる。お前がレイラを洗脳したんだろう?」

「違うよ。リュウさんは勘違いしている。あたしは洗脳なんてされてない。自分の意志でここまで来たの。あたしは」

 レイラが制止を訴えるより早く、握られたリュウジの拳がショウの頬を殴った。ショウは後ろ手でレイラを庇ったまま体が浮くほどの暴力を耐えた。殴られた衝撃で、ぬるぬると滲み出た鮮血がショウの口元を流れた。ショウは顔を顰めると、土の上に赤い唾を吐いた。

「気は済んだかい、リュウジくん。なんならもう一発くらい殴るといいよ」

 不敵な笑みを浮かべたショウの問いには答えず、リュウジはレイラに呼び掛けた。

「こっちへ来い、レイラ。今ならお前を助けてやれる」

「ごめん、リュウさん。それは出来ない」

「お前たちの処刑命令が出ている。見つけ次第、射殺しろとな。今、お前たちは指名手配犯のテロリストだ」

「あたしたちはテロリストじゃない。ただ職場放棄しただけ。銃を持ち出したことは悪いと思っているけれど、これは護身用で……」

 レイラは必死に言うが、リュウジは険しい表情で首を横に振った。

「お前たち二人は共謀して、警察組織の壊滅を企んでいた。手始めに本部庁舎の乗っ取り、それを皮切りに、本部長、最終的には警察庁長官の暗殺を計画していたと。高垣翔が使用していたPCから全て裏はとれているんだ」

「そんなこと……」

 二人は顔を見合わせる。確かに銃は持ち出した。それは犯罪だが、全く覚えのない重罪が掛けられていたなんて思いもしなかった。

「お前が来なければ、こいつを殺す」

 リュウジはショウを羽交い締めし、彼のこめかみに銃口を押し当てた。レイラは銃を構えた。

「レイラ、僕に構わず逃げろ」ショウが声をあげた。

「リュウさん、ショウから離れて。お願い。お願いだから彼を撃たないで」

 銃を構えたまま、リュウジに懇願する。レイラの手が震えた。彼女にリュウジは撃てなかった。

 一方のリュウジは微動だにせずレイラを見つめていた。そして数秒後、ゆっくりとショウのこめかみにあてていた銃を降ろした。

 逃がしてくれる。分かってくれたんだ。そうレイラが思った瞬間、耳元で銃声が鳴り響いた。見ればショウの足が撃たれていた。

「どうして……」

 リュウジは蹲るショウの腹部を数回蹴りつけ、素早くレイラの手から拳銃をもぎ取った。咄嗟の事でレイラは反撃できない。とにかくショウを助けなければ。そう思ったレイラは足を踏み出すが、リュウジに背後から押さえつけられ、薬品を嗅がされ意識を失った。


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