空の色は変化し続ける、という不変。～群青と茜色の空～

～群青と茜色の空～

プロローグ

　昼過ぎから降り続いている雨で、足元には水たまりができていた。

「くそっ、また雨足が酷くなりやがった」

　長身で黒髪、鋭い眼をした男は忌々しそうに空を見上げた。空からは大きな雨粒が絶えず落ちている。彼が着ている黒のジャケットは、みるみるうちに水分を含んで鈍く光っていた。

　車まではまだ距離がある。このままずぶ濡れで戻るかと周囲を見回した時、少し先に廃屋が見えた。雨を凌ぐのにはちょうど良いだろう。そう思った男は雨粒を浴びながら駈け出した。

　人気のない場所に建っていたのは、今にも崩れ落ちそうな木造の破屋だった。中に足を踏み入れると、柱と屋根は残ってはいるが戸障子は朽ちて元々どういった部屋だったのかもわからない。蜘蛛の巣を避けながら奥に進むと女が一人、埃の被った板の上にちょこんと座っていた。

　見たところ、年齢は10代前半。肩まで伸びた黒髪、白い肌、着ている長袖のワンピースは、薄汚れていて、元の色が分からないほど泥だらけになっている。ワンピースの裾から剥き出しになっている足には、いくつもの擦り傷が見えた。誰かに乱暴でもされたのか。男はそう思いながら、ゆっくりと彼女に近づいた。

「おい、きみ。大丈夫か。こんな所で何をしているんだ」

「あなた、誰？　あたしは、えっと、誰なんだろう。何も分からない」

　彼女は男を不思議そうに見つめて、首を傾げた。見知らぬ男が声をかけても全く警戒していないところを見ると、乱暴されてはいないようだ。

「男の人」

彼女は徐に呟いた。

「は？」

「誰だっけ、あの人。あなたじゃない。みんな血まみれ。あたしたち、もう終わり。あなたもきっと、殺される」

　彼女は宙を見つたままぶつぶつと呟く。

「誰か一緒じゃないのか？　身元が分かる物はないか？」

　男は幾つかの質問をしつつ、彼女の周囲を探った。ここで暮らしていたのか、空の　ペットボトルやお菓子の空き箱など飲食物の包装が散乱している。身元が分かるようなものは見当たらなかった。

　ふと彼女自身を見ると、首からプレート型のペンダントを掛けていた。男はゆっくりと手を伸ばしペンダントに触れた。彼女は距離を縮めた男に警戒することもなく、視線を男に移した。

「きみはレイラと言うのか？」

　シルバーのプレートにはLaylaと刻印されている。そう古いものではなかった。

「わからない」

「参ったな。何があったんだと聞いても、名前さえも分からないなら無理か。こんな所で女が1人でいたら危ないな。とりあえす俺と一緒に来い」

　彼女は何も言わず、ぼんやりと男を見ている。

「捜索願が出ているかもしれないだろう。安心しろ、俺は警察官だ」

「けいさつかん？」

　彼女は首を傾げた。警察官が何者かも分からないらしい。

「とにかく行くぞ。それとも、誰か戻って来るのか」

　連れが付近にいるのかもしれない。だが、その連れが彼女を拉致した人物だったら。あいにく今は銃を持っていない。腕っぷしに自信はあるが、相手が複数だと厄介だ。まずは保護するのが先だろうと考えて、男は彼女の腕を取った。

「立てるか。ゆっくりでいい」

　彼女はよろよろと立ち上がった。棒のように細い足には無数の擦り傷がある。この調子では、同じペースで歩けそうにもない。男はひょいと彼女を抱えて横抱きにした。お姫様抱っこをされた彼女は、にこりと微笑んだ。

「あなた、王子様みたいね。本で読んだことがある。でも、あたしの王子様じゃない」

「王子様？　そういう単語は覚えているんだな。何があったか知らないが、戻って行方不明者リストと照合したら、すぐに身元も分かるだろ。王子様の元へ返してやるよ」

　男はにこりともせず、彼女を抱きかかえたまま歩を進める。

　外に出ると、雨はすでに上がっていた。

「ねぇ、あれはなんていう色？」

　彼女は空を指さした。空の低い位置に月が出ている。先ほどまでの厚い灰色に覆われた空は青く深みを増し、一面に濃いインクを塗ったように広がっていた。

「もうじき夜か。あの色は、そうだな濃い青。いや、群青」

　男はぶっきらぼうに答える。

「ぐんじょう。綺麗な色だね」

　彼女は微笑みながら空を見つめていた。