第8話 惨劇の記憶
真っ暗な空間の中にいるみたいだった。ここはどこなのだろう。あたしは誰だろう。自分が何者か解らなくて、不安が押し寄せてくる。
不意に暖かさを感じた。誰かの腕の中で包み込まれている。
「ずっと見つけられなくて、ごめん」
優しい声が耳に入った。慈しむような、愛おしむような。あたしはこの声を、知っている。
「無事でよかった。やっと会えたね」
あなたも無事でよかった。あたしの中の誰かが答える。あたしは彼が大好きだった。それなのに忘れたのよ、大好きな彼のことを、と。
霧がかかっていた脳内が徐々にクリアになっていく。記憶が少しずつ引き出される。閃光と共に様々な場面がフラッシュバックした。
脳裏に蘇るのは、逃げ惑う人々の姿と響き渡る悲鳴。容赦なく撃ち込まれる銃弾と向けられる刃物。飛び散る血肉。友人が、家族が目の前で変わり果てていく姿。そして、必死で逃げるレイラの手をしっかりと握る誰かの手。逃げて、逃げて、ただひたすら走った日々。
「ショウ……だよね」
彼の腕の中で、レイラはうっすらと目を開けた。涙で視界がぼやけている。そこにいたのは、レイラが知っている『彼』だった。幼い頃からずっと一緒だった彼。彼の名前は『ショウ』。あの頃より声も低くなって、背も伸びて、逞しくなっている。見た目はずいぶんと変わったけれど、彼は紛れもなく『ショウ』だった。
「思い出したかい? 僕のことを」
優しく問いかけられ、レイラは静かに頷いた。
「あの惨劇を見たきみは、ショックのあまり記憶を無くしたんだ。自分が誰かも分からないくらいにね」
ショウは困ったように肩を竦めて笑った。抱き寄せる腕が懐かしい。愛しかった。あの頃、いつも一緒にいるのが当たり前だった。
「良かった。ショウ……無事だったんだ……」
レイラは彼の胸に顔を埋めた。滲む涙が彼のシャツに染み込んでいく。
「思い出したのなら、笑ってくれないかな」
ショウが顎をすくいあげて、顔をのぞき込む。
「あたしたち、2人で逃げたよね。どこまでも」
「そうだね。あの時の僕たちには、逃げるという選択肢しかなかった。2人の力では太刀打ちできない相手だった」
ショウは力なく微笑む。
惨劇がまた脳裏に浮かんだ。
事件が起きるまでは平和な日々だった。
幼いころからレイラはよく押し入れの中で寝ていた。閉鎖された空間で頭まですっぽりと布団を被って眠ると、不思議と熟睡できたのだ。
あの日の深夜、突然叫び声が聞こえて目を覚ました。
ただならぬ空気を感じて、そっと押入れの襖を開けた。少しだけ開いた引き戸の隙間から外の様子を伺った。まず視界に入ったのは、血まみれで倒れているパパだった。次に見えたのは、覆面をした人間が武器を手に家の中を歩いている姿。声を出しそうになる自分の口を必死に両手で抑え、呼吸を整える。押し入れにいたから、同じ部屋にいながら見つからなかったのだと思い、布団からそっと出て柱の陰へと隠れた。
目の前で倒れているパパは、すでに息をしていないようだった。パパの隣で寝ていたはずの、ママや妹たちの姿はなかった。
レイラは、2人の妹とママを探した。犯人に見つからないよう、部屋から部屋へと慎重に移動する。『あと1人いない』男のくぐもった声が聞こえた。見つかれば殺される。何とか逃げ出さなければ。ママと妹はキッチンで折り重なるように倒れていた。みんな血まみれだった。
一瞬の隙をつき、家を飛び出し逃げた。犯人の1人がレイラに気が付いて、追いかけて来る。背後から銃声が聞こえた。どうしてこんな目に遭うのか分からない。それでもただ走った。隣の家も、その隣もからも叫び声と銃声が聞こえてきた。
『レイラ、こっちだ』
聞きなれた声がして、声の主がレイラの手を引いた。ショウだった。2人は手を取り合って、訳も分からず逃げた。追えと指示する男の声。飛び交う怒号と銃声。
家から飛び出してきた住民が、背後から撃たれ目の前で倒れた。彼女は1つ年下の友人だった。助けることも出来ず、涙を流しながらただ走る。これが夢なら早く覚めて欲しいと願いながらひたすら逃げた。
あの日の叫び声がこえた気がして、レイラは思わず耳を塞いだ。ショウはゆっくり彼女の背中をさすった。
レイラは、記憶を引き出しながら言葉を紡いだ。
「逃げる途中で記憶を無くしたあたしを、ショウは献身的に尽くしてくれた。思い出したよ。ずっと逃げて逃げて、数か月経った時、人目につかないどこかの廃屋で、しばらく身を寄せ合って暮らしていた。ある日、ショウは雨の中、底を突いた食料を調達しに出掛けた……」
「そう。僕が戻ると、きみは忽然と姿を消していた」
深いため息とともに、ショウは言った。
「あの日、あたしはリュウさんに拾われた。自分の名前も分からないあたしを、リュウさんは警察に連れて帰った」
「僕は必死になって探したよ。でも見つからなかった。まさかレイラを連れ去った相手が、警察の人間だなんてね。警察内部に入りこんで暮らすきみを、簡単には見つけられなかった」
「でも、よく見つけたね」
「僕たちが昔、どんな関係だったか覚えているかい?」
ショウが不安そうな表情で、レイラの顔を覗き込んだ。
「恋人……だった」
そう、あれは惨劇が起こる数か月前。
レイラとショウは13歳。集落内にある学校をもうすぐ卒業する頃だった。彼女達は学校を卒業すると、外の世界に出ることができた。国が仕事を斡旋してくれるとかで、2人は外の世界に出て、同じ職場で働く予定だった。集落のなかで、同級生はレイラとショウだけだった。
「外の世界ってわくわくするね。でも、ショウも一緒だし心強いよ」
「そうだね。外の世界ってほとんど知らないことばかりだからね」
外に出たらまず何が食べたいとか、有名なテーマパークには行きたいとか、2人で笑っているとショウが急に真面目な顔つきになった。
「突然だけど、笑わずに聞いてくれるかい?」
「なに? 改まってどうしたの?」
レイラはきょとんとして彼を見た。彼はもごもごと口を動かした後、覚悟を決めたように彼女の肩を掴んだ。彼の掌は異常に熱かった。
「あのさ、ずっとレイラが好きだったんだ。僕と付き合って欲しい。そして、レイラが18歳になったら結婚しよう」
付き合うとか、結婚とか意味が分からない単語ではなかったが、突然の話に驚きの声をあげる。
「ちょ、ちょっとショウ。いきなり何の冗談?」
彼の熱が掴まれた肩からじわじわとレイラの全身に伝わってくる。
「冗談でこんなこと言えないよ。僕は本気なんだ。それとも僕のこと嫌い? ぼくはずっとレイラを愛していたんだ。だから……」
ショウを好きか嫌いかなんて考えたこともなかった。幼い頃から気が付けばずっと一緒だったし、彼のいない生活は考えられなかった。外の世界に出ても一緒にいるだろうし、ずっと続くと思っていた。それが愛しているということなのだろうか。ふと疑問に思いショウに尋ねる。
「でもさ、愛するって心理学・生物学的にそれぞれ定義が違うと思うけれど、結局は脳内物質の放出量によるって。確かこの前、習ったよね」
冷静に答えればショウが苦笑いする。
「レイラは僕を見ても、脳内物質のアドレナリン、ノルエピネフリン、ドーパミン、それから……まぁいいや。なんとも思わないの? 僕はレイラを見るたびに落ち着かない気持ちになっているって言うのに」
「そうじゃないよ。あたしにはショウがいない世界なんて考えられないし」
「それって……」
「もう、返事は分かっているでしょ。こんなあたしだけど、これからもずっと、おじいちゃんおばあちゃんになるまで、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、ショウは破顔一笑した。
「良かった。もし断られたら、明日からどんな顔で会えばいいんだって思っていたんだ。僕が絶対に幸せにするからね。お姫様」
「もう、こういう時は『2人で幸せになろうね』じゃないの? あたしは王子様に守ってもらうタイプじゃないって、知っているくせに」
「そっか。そうだ、これつけてくれる? ぼくが作ったんだ」
ショウはポケットから長方形の箱を出す。中にはネックレスが入っていた。シルバーのプレートには『Layla』と刻印されている。
「わぁ、ありがとう。すごく精巧につくられているね。でもどうしてあたしの名前だけなの? Laylaなんとかって、例えば『ずっと一緒に』とかあるじゃない? ペットみたいだよ」
「レイラに伝えたい言葉が多すぎて、収まらなかった」
「何それ」
ショウがくれたネックレスを付けて、顔を見合わせて笑いあった。邪魔するものは何もなかった。
2人は誰にも見つからない場所を探した。少し小高い丘の空き家。その隣に建てられた小さな木造の倉庫がパラダイスだった。
付き合い始めたものの何も知らない2人は、狭い空間で顔を寄せ合ってくすくす笑いあっていた。レイラはとても幸せだった。今まで感じたことのない、喜びだった。
レイラの前で嬉しそうに微笑むショウを見る、それだけで幸せだった。
けれども数週間後、悲劇は起こった。家も、家族も、友達も一夜のうちに奪われたのだ。生き残った2人は、なんとか集落から抜け出し、初めて見た外の世界を彷徨った。
見た事もない建物、動く乗り物、全てに怯えて、ただひたすら逃げた。希望に満ちていた外の世界は、楽園ではなかった。外の世界にいる人たちは異質なものを見るように二人を眺めていた。近づいてくる人が敵か味方かも分からず、声をかけられれば、ただひたすら逃げた。ただ生きたかった。生きなきゃいけないと思った。生きるために、ただ逃げた。
そして気が付けば、レイラは記憶を無くしていた。ある日、目覚めると、ショウの事すらも忘れてしまっていたのだ。
「レイラに再会してから、何度、抱きしめたいのを我慢したか」
ショウが、昔を思い出していたレイラの顔を覗き込む。
「なにそれ」照れながら目を逸らした。
「2人きりになった時、何度、キスしたいのを諦めたか」
そっとレイラの身体を引き寄せた。
「僕の気持ちは今も変わりはないよ。レイラ。ずっときみのことを想っていた」
耳元で囁かれた言葉で、懐かしい想いが蘇る。レイラは彼が大好きだった。淡い気持ちに浸っていると、突然、唇を求められた。戸惑いながら彼の想いに応える。甘くて柔らかい感触が唇を伝って脳内へと辿り着く。初めての恋。記憶を取り戻した脳裏には、あの小屋で過ごした優しい時間がよぎる。
でも、彼はもうあの時の、13歳の彼ではなかった。キスはどんどん深くなり、大人のキスが首筋に降ってくる。
「……レイラが欲しい」耳元で吐かれた声は低く、澱んでいた。
「え……」
ふと目線を下に向けると、ジャケットが脱がされていることに気付く。あたしは得体のしれない感覚に震えた。
彼の手が胸に触れた時、ふと、リュウジの顔が脳裏に過った。我に返り、そっと彼を押しやった。
「ま、待ってショウ」
ショウは身体を離し、黙ってレイラを見つめ、次の言葉を待っている。
「やっぱり……みんなを裏切ることはできないよ」
対象者と恋愛関係になる事はご法度だ。例え誰であっても。
「レイラが裏切られないのは、みんなじゃなくてリュウジくんでしょ」
穏やかな口調でショウが答える。
「ごめん……」
「レイラとリュウジくんを見ていたら、2人がどういう関係かなんてすぐに分かるさ」
重苦しい空気が2人を包んだ。
「あのね、リュウさんはこの10年間、辛くて逃げ出したかった時も見捨てずにいてくれた。あの人が居たから、あたしはここまで強くなったの。だから……」
銃の扱いも、敵との戦い方も、全てリュウジが教えてくれた。優れた身体能力を持ってはいたが、それをここまで引き出したのは彼のおかげた。
「僕たちはそれぞれの場所で生きていくべきなのかな。僕はレイラの辛い顔を見たくて、打ちあけたわけじゃないんだ。もしも、レイラが1人で辛い思いをしていたら、いや、そんな事はないか。でもさ、辛くなったらいつでもおいで。待っているから」
全てを言い終えないうちに、優しい口調で、説き伏せるようにショウは言った。
「ショウ……」
次の言葉が見つからない。気まずい空気を変えようと、ふと気になることを尋ねた。
「もしかして、あなたの身辺を調べろって指示したのって……」
「そう、僕自身だよ。レイラたちが、どんな仕事をしているか気がついたから、それを利用させてもらったんだ。実際、僕の存在は謎が多いから、こうやって誰かに調べられた方が、上層部も納得するかなって思ったし。何よりきみに接触して、記憶が戻っているかどうか確かめたかった。あのマンションは、レイラの記憶が戻ったら一緒に過ごせるかと思って用意したんだけど……」
ばつが悪そうな顔で彼は頭を掻いた。
「ごめん……」
それ以上、何と返せばいいか分からず話題を変えた。
「そう言えば、どうしてあんな軽い男なの? ショウ、あんなキャラじゃなかったでしょ」
職場で女子職員に声をかける彼を思い出し、肩を竦めた。レイラの知っているショウは、知らない女性に気軽に声をかけるタイプではなかった。物静かで、ちょっと寂しがりや。でも意志は強く、ずば抜けた身体能力と、記憶力を持っていた。この10年の間に一体何があったのだろう。
「いかにも怪しい方が、色々とやり易いだろう」
ショウはオーバーアクションでにやりと笑う。その顔と仕草はまさしく昼間の高垣管理官。だから、それやめてと言いながらレイラは気になることを聞いた。
「ショウは、みんなを殺した犯人たちについて、心当たりがあるの?」
彼は急に口を真一文字に結び黙りこんだ。
「警察内部に入りこんで何か分かったの? もしかして1人で復讐する気?」
やはり口を閉ざしたまま。「ねぇ」と言うと、彼はやっと口を開いた。
「その質問に答えるつもりはないよ。だって、さっき決めたでしょ。それぞれ別々の場所で生きていくって。僕はレイラに会えただけで良かったよ」
「そんなの狡いよ。勝手だよ」
レイラは思わずカッとなって声を荒げた。
「レイラ……」
ショウは困った顔でレイラを見つめる。
「じゃあ、ショウはどうしてこんなことしたの? あたしに近づいて、記憶を戻して、でも家族を殺したやつらの事は教えられないって、何がしたいの?」
レイラは彼に詰め寄った。ショウを責めても仕方ないとはわかっていた。
「あたしが簡単に、今の仲間を捨てると思ったんでしょう」
ショウはぴくっと動いた。図星だった。彼は困った顔のまま、レイラの目を見る。
「確かにそうだよ。レイラの記憶が戻れば、僕と共に戦ってくれると勝手に思っていた。でも現実はそうじゃないよね。10年と言う年月はそう簡単に埋められない。混乱させてゴメン。でも、レイラに会えて良かったというのは本心だから。僕はレイラに笑っていて欲しいんだ」
「ショウ……」
次の言葉が見つからなかった。ショウは微笑みながらレイラの肩にぽんと手を置いた。
「そろそろ帰ったほうがいい。明日からも職場では会えるわけだし。ここに長居したら、リュウジくんが怪しむよ」
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