イノセント・ラブレター
宇月朋花
始まり
第1話 ノスタルジア
この辺りに住む子供の一番の遊び場といえは海だ。
大体どの家も二代ほど遡れば漁師もしくは漁業組合に関する仕事についていて、海から徒歩10分の距離に住んでいる。
地元の夏祭りにも使われるだだっ広いグラウンドと、古びた公園もあるにはあるが、海風でペンキの剥がれた鉄棒と砂場しかないそこは子供の楽園とは言い難く、必然的に学校が終わればほとんどの子供は目の前の海へ遊びに出掛けていた。
今では考えられないくらい、他所のお家と我が家の距離が近い環境で育った子供たちは、お邪魔しますは縁側から、というのが定番で、誰かの家に集まって宿題をしたまま夕飯をご馳走になるなんてことも珍しくはなく。
子供たちを迎えがてら、地酒やおつまみ、夕飯のおかずを手に大人たちがやって来るのも常で、憧れのカントリーハウスにはほど遠い、純和風建築の古びた日本家屋の早苗の家の縁側は、真冬以外は殆ど開けっ放しで、いつも誰かしらがそこから顔を覗かせて来た。
保育園から始まって、中学校まで一つの地区のみで形成されている海辺の町は、刺激とは無縁の、穏やかで静かな片田舎。
宴会になれば、町内に住む担任の先生まで巻き込んで盛り上がるので、学校での悪戯はすべて筒抜け。
町で子供を育てることが完全に浸透している、希少な地域だった。
当然、町内のほとんどの住人と顔見知り、なんなら同級生の親の職場まで知っているような小さな世界で、誰からも傷つけられることなく、子供たちはのびのびと成長していた。
そして、その小さな世界のなかでこれからも生きて行くのだと、信じて疑わなかった。
・・・・
もう飽きるほど通いなれた海沿いの道をゆっくり、ゆっくり歩いていく。
3月最後の日。
吹く風はまだ少し冷たくて、けれど真冬の頃よりはずっとずっと穏やかで。
春が、またやって来ていた。
季節は巡っているのだ。
誰かの意思とは関係なく。
年を重ねるごとに、季節の移ろいはちゃんと分かるようになっていったけれど、ここ数年何もかもが希薄なまま過ごしてきた早苗にとっては、まさに数年ぶりの春だ。
待ってないよと散る桜を見て苦くなったのは、昔の話、と、思いたい。
俯いたままだって、蹲ったままだって、勝手に未来は背中を押してくるのだ。
どんなに嫌だと叫んでも、突っぱねても。
数年前の舗装工事で綺麗に整えられた海岸通りには、犬の散歩をする人や、ジョギングをする人たちが行き交う。
もう少し遅い時間になれば、地元の老人たちが運動を兼ねてこの辺りを一周し始めるので、早苗を見つけた誰かに声を掛けられる可能性もあったけれど、この時間なら誰にも会わない。
もう、早苗を見かけても気づかわしげにする人はいないはずだが、当たり前のようにすべての出来事が過去になっている現実を突きつけられるたび、置いてけぼりを食らった自分が心底悔しくなる。
こんなはずじゃなかった。
もう何度も思ったか分からない。
昇ったばかりの太陽は、赤く、眩しく、強く砂浜を照らす。
玄関先に揃えられていたサンダルをそのまま履いて来たので、砂場に降りるや否や早速白い砂の襲撃を受けた。
当たり前のように裸足でこの砂浜を駆け回っていたのは、ついこの間の事のはずなのに、足の裏に感じた砂の感触に違和感を覚えてしまう。
自分のなかの何かが、この海までも否定しようとしているのかと苦笑いが零れた。
「危ないから、靴脱いだら駄目よ」
のんびり歩く早苗の横を通り過ぎた母親らしき人が、少し先を歩く少女に声を掛けた。
弾けるような笑い声と共に間延びした返事が返って来る。
「はあい」
定期的な海岸清掃は行われているものの、ガラスの破片や放置されたゴミはやっぱりにゼロにはならない。
同じような台詞で窘められたことを思い出して、思わず空っぽの隣を確かめてしまった。
よく遠回りして、海の散歩道と名付けられた狭い歩道を通って学校から帰った。
夏の暑い日は、帰り道の途中にあるほぼ閉鎖状態の市場で細々と営業を続ける駄菓子屋で溶けたアイスを齧りながら。
寒い冬は、昔からラインナップの変わらない錆び付いた自販機の暖かい紅茶の缶で両手を温めながら。
そしていつも海の側の喫茶店で
きっとあの店に来なかったらいつまでも早苗は珈琲嫌いのままだったはずだ。
大人を思わせる苦みも、芳醇な香りも、ずっと敬遠したままだったはずだ。
そしていつまでも、甘ったるいミルクティーばかり飲んでいたと思う。
その隣で、美味しそうに珈琲を飲む晴の顔を見ながら。
学校のこと、宿題の事、クラスメイトの誰かの話。
昨日見たテレビのバラエティー番組のこと、借りた少年マンガの今後の展開、やりかけのゲームの攻略法について。
ほんのちょっと手を伸ばせばすぐ届く場所に居ながら。
何かを伝えることはないままに。
ただ、その時間を一緒に過ごした。
一生のうちで一番短い、甘くて、柔らかで、眩しいときを。
泣きたくなるほど幸せな一瞬を。
この先も当たり前に続く未来を思って、どこまでも無限に広がる夢を零れ落ちないように、必死に抱きしめながら。
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