第56話 思い出すなら、もっと
開店のプレートを下げてから2時間の間にいつもの常連客が2組。
そして、常連客と同じようにお馴染みの差し入れを持ってやってきた藤野の妻と話すこと10分。
磨いたグラスはどれもピカピカで、店に流れるラジオのボリュームも心地よい。
やっと、ひとりでも大丈夫になってきたなぁ・・・・
最愛の妻を亡くしてから、息子と二人。
なんとか店のあの何とも言えない静けさに慣れようと躍起になっていた頃。
太陽みたいに強い光を運んできてくれたのは、藤野の一人娘の早苗だった。
いつだって、僕は逞しい女性陣に引っ張られて来たんだよなあ・・・・
呆然としている男たちをぐいぐい明るい場所へ導いて、いや追い立てて・・・
とにかく、ずっとそうやって元気をくれたのはあの小さい女の子だった。
晴にとっては、一等眩しい太陽だったろうに。
「置いていくなよ・・・」
一番大事だと、15年間で一番かけがえない人だと、そう信じてたんだろう?
眩しいほどに強い光は一瞬にして、照らす存在を無くしてしまった。
震える背中を未来へ向けて、ゆっくりと押しやったあの日のことを今でも鮮明に覚えている。
慈しむように撫でた、指定席のテーブル。
あれ以来、この店を訪れるだれもあの場所には座らない。
強くなって帰ってくるから。
無言の瞳に映っていたのが、晴の分も柔らかく笑えていた自分なら良いと思う。
埃ひとつついていない写真立てを、やはりいつもの癖で拭いてしまう。
と、入り口のカウベルが鳴った。
・・・・・・・・・
「おっちゃんおはよー」
ゆっくりとした足取りで入ってきたお腹の膨らんだ華南を見てマスターは口元をほころばせる。
「やあ、良く来たね。体調のほうはどうだい?」
手に持っていたスーパーの袋を受け取ってカウンターに腰かけるのを手伝ってやる。
膨らんだお腹を撫でて華南がありがとうと言った。
「もういつでも生まれて来いって感じ。早く出せー!ってお腹を蹴る蹴る・・・・生まれる前からこんなで大丈夫かなぁ・・・ガンみたいなゴンタになったらどーしよ」
今頃張り切って配達中の旦那の顔を思い浮かべて、華南が苦笑する。
マスターは冷蔵庫から数種類のフルーツを取り出して、ミキサーにかけた。
華南が来るたびに用意する特製ミックスジュースだ。
「どっちに似ても、ゴンタは決定じゃないかな?」
ガンをやり込められるのは華南だけ、というのはこの辺りの常識である。
「あ、ひっどーい。でも、うちの親も同じこと言ってる。義父さんなんて、元気ならなんでもいい!とか言っちゃって、生まれる前からベビーベッドにぬいぐるみ溢れさせてるの。義兄さんのお家からもどんどん産着が届くしもうてんやわんや」
妊娠、結構騒動から一変、両家が手を携えて生まれて来る子供を大切に慈しもうとタッグを組めたのは、幼馴染たちと、藤野夫妻の奮闘のおかげだ。
いまでは、この町の全員が、ガンと華南の子供に会えるのを楽しみにしている。
「結構なことだよ。まあ、みんないるんだ、子育てはこの町の大人みんなでやればいいんだ。大丈夫だよ」
「・・・面倒見てくれる?」
「もちろん」
「良かった・・・・」
華南は呟いて、スーパーの袋からタッパーをふたつ取り出す。
「茄子の炊いたのと、義母さんの佃煮ね。茄子は早めに!味付け頑張ったから沢山食べて。お供えもしてね」
「ありがとう。いつも悪いね」
「マスターに不摂生されると困るのよ。早苗が帰ってきたとき、怒られるのあたしたちよ?」
華南の言葉にマスターは頷いて、店の冷蔵庫にそれを大切に片付けた。
こうして日々届けられる総菜たちのおかげで、ここ数年体重は増えて行く一方である。
ここに越して来た頃よりも明らかに酒量も増えたけれど、色んな事があって、最近また笑顔も増えて来た。
今日の夕飯のメニューはこれと、常連客たちが持ち寄った総菜各種で決定である。
振り向くと華南が、写真立てをいつものように眺めていた。
なにも欠けること無く、全てが満ち足りていた一瞬を切り取った、思い出の一枚。
「・・・連絡は?」
マスターの言葉に、華南が首を振る。
「出てった次の月に、元気ですって絵葉書一枚届いて以来、音沙汰なし・・・元からマメな方じゃなかったし・・・携帯も解約してるし」
「そうか・・・・」
潔すぎるよと思うも、そういうところが早苗らしいとも思ってしまう。
頷いたマスターがに、華南が悔しそうに唇を噛んだ。
「マスター・・・・あたしね、一つだけ後悔してるの。あの子がこの町出る日の朝、悪阻がひどくって動けなかった自分がめちゃくちゃ悔しいの。無理やりにでも連れて行ってもらえば良かった。そしたら、友世の分も、早苗のこと引っ叩いて・・・馬鹿って叱って・・・思いっきり抱きしめてあげられたのに」
もしも、身軽で走れたのなら、迷うことなく追いかけた。
1人で行かせたりしなかった。
想い出に負けないって戦うんなら、ひとりより、みんなとの方がいい。
絶対そうに決まってるのに。
早苗の一番はいつだって晴。
あたしたちには付け入る隙さえ与えない。
それはずっと昔から分かっていたけど。
なんでもひとりでしようと頑張って、抱えきれなくなってパンクして、それをいつも助けるのは晴の役目だったけれど。
でも、その晴はもういない。
だったらあんたは誰を頼るの?
ねえ、1人で泣いてない?
窓から差し込んだ光が写真を照らす。
反射した光線のせいで、晴たちの顔がよく見えない。
お願い、消えてしまわないで。
フレームを指で擦る。
マスターが優しく微笑んだ。
「生まれてから一度だってここを出たことの無い子だからね。出て行き方も、帰り方も分からないんだよ。でも、あの子は大丈夫。どこに居たって晴が守ってくれるよ。ほら、きっと今頃、僕らより超人的なパワーを手に入れてるだろうしね。しかも、うちの奥さんの後ろ盾付き。はっきり言って無敵だよ?まどかは、本当に強い人だったから・・・」
「・・・引きとめるかと思ってたのにな・・・」
少し恨めしそうな口調で華南はストローを加える。
バナナとオレンジの甘い香り。
体中に栄養と愛情が行き渡って行く。
カウンターの奥の食器棚の片隅には、早苗と友世が買い込んできた栄養素の本と、妊婦に良いメニュー本、気の早い離乳食レシピ本まで並んでいる。
これを開いてはああだこうだと華南のために色んな料理を作ってくれた。
忙しそうにしている早苗は、少しだけあの頃に戻って見えた。
「・・・可愛い子には旅をさせろってね」
「・・・・・なにそれ・・」
カウンターに肘をついて、少し体を傾けてマスターはゆっくりと眼を閉じた。
「・・・・晴で・・・終わらせちゃいけないと思ったんだよ」
躊躇うことなくお互いを選んだ、ふたりの強い絆。
いつも、繋がれていた手。
そこに愛情があることを、誰もが知ってる。
永遠にすら似た優しい時間。
「あの子は、自分の全部が晴と同じだと思ってた。きっとあいつもそうだったんだろう。だから、片方がなくなったらダメだった。僕は、それを一番良く知ってる・・・体の半分を失くすくらい・・・痛くて辛いことだよ・・・・でも、あの時さなちゃんに必要だったのはずっとここに居ていいよっていう、その場限りの慰めや優しさじゃない。この場所から・・・思い出の中から、あの子を突き放すことだったんだ・・・そして、きっと、それが出来たのは僕と、晴だけだったと思うんだよ・・・・・・もちろん僕一人の力じゃないよ・・・・・きっと、晴があの子の背中を押したんだと思う。晴から、さなちゃんへの、最初で最後の・・・エールじゃないかなぁ・・・一番大事だった子を手放すんだ・・・・・・よっぽど相手を思ってなきゃ出来ないよ・・・・・幸せになれってね・・・・・・・ずっと・・・いまも・・・それだけを願ってると思うよ」
華南は強く頷いて、フレームを戻した。
「・・・・帰ってくるよね?」
「もちろん。あの子の家はここにしかないんだから、必ず帰ってくるよ。その時は、お腹のその子と一緒に迎えに行ってやるといい」
そう言ったマスターの顔はすっかり父親の顔から店主の顔に戻っていた。
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