第4話 オンナノコ
まだ、この地元の海が”海水浴場”という看板を上げて、地元民以外も受け入れていた頃に海の家として使われていた古いログハウスをそのまま買い取ったらしい。
お洒落な海岸というよりは、漁師町の呼び名の方がしっくりくる廃れた海は、海水浴客の受け入れをやめてから、海沿いにあった民宿も商店も軒並み店をたたんでしまった。
この辺りの喫茶店と言えば、隣駅の前にあるパチンコ店の横の小汚い店を指す。
西の工場地帯に荷物を運ぶトラックの運転手が時間潰しに訪れるような店で、煙草の煙が充満したその店は、珈琲を味わう店では無くて、トラックの運転手たちのたまり場だった。
地元民にとって珈琲は、自宅で飲むもの、もしくは街に出て飲むものだったのだ。
そんな中で、いきなりやって来た余所者が始めた海辺の喫茶店【リナリア】。
開店してすぐに自治会長たちが揃って顔を出したらしく、久しぶりに美味い珈琲を飲めたとご満悦だったらしいが、小学生には無縁の場所である。
喫茶店に一人で入ったことなんてない。
子供だけで電車に乗ったことすらないのに、連絡プリントを渡すためとはいえ、カウベルを鳴らして店に入るのはかなり勇気が要った。
しかも、晴には大きすぎる借りがあるのだ。
このまま家に帰ることなんて出来なかったし、今日を逃せばもう晴と普通に話せなくなる気がしていた。
味わった情けなさも惨めさもひとまず押し込めて、お店のドアに向かえば。
木製の”CLOSE”のプレートがドアにぶら下がっていた。
閉店中だったことにホッとして、ログハウスの裏手に回って、勝手口らしきドアの横のインターホンを鳴らす。
人の家のインターホンを鳴らすのも初めてでドキドキした。
回覧板の時みたいに”藤野です。晴樹くんのプリント届けに来ました”かな?
言うべき台詞を1人で試行錯誤していると、いきなりドアが開いた。
顔を見せた母親らしき人物が、早苗を見つけて首を傾げる。
「はーい、どなたー?」
彼女の顔をまともに見る暇も無く早苗は頭を下げる。
「あっこんにちは!」
「はーい、こんにちは。あ、早苗ちゃん?」
名前を言う前に言い当てられて早苗は驚いて顔を上げる。
「あの・・・」
「足の怪我、大丈夫?あ、うちの子から聞いたのよー」
早苗の足元を指さして言われて、大慌てで手提げカバンからプリント入れを取り出す。
正直、晴本人がここに来たら上手く話せそうになかったので、母親が対応してくれたことは本当に有難かった。
「これ、先生から預かりました。あの・・・晴樹くん、風邪ですか?」
お礼とお詫びとお見舞い。
改めてここに来た目的を思い出して、足がすくむ。
明日に持ち越しはしたくない、が、面と向かって顔を合わせるのもなんとも気まずい。
早苗の問いかけに、母親がからりと笑って見せた。
「元気げんき、今日は私を病院まで迎えに来るためにお休みしちゃったのよ。心配かけてごめんなさいね」
病院?
耳慣れない単語に改めて母親に向かって視線を戻せば。
「上がってって言いたいんだけどまだまだ家の中引っ越しの荷物でぐちゃぐちゃでね。良かったらお店でジュースでも飲んでいかない?晴樹も呼ぶし」
「え・・・でも」
「遠慮しなくていいのよ、ほら、いらっしゃい」
どうしようか迷う早苗の手を掴んで、母親が店の方へと歩き出してしまった。
結局断り切れずに、初めてリナリアの店内に足を踏み入れる。
カウンターの奥で荷物を片付けていたマスターが、こちらを振り向いていらっしゃいと柔和な笑みを浮かべた。
早苗の父親は、漁師だった父親譲りの日に焼けた気風のいい中年オヤジといった風情だが、晴の父親はどちらかというと線が細く繊細な印象を与える人物だった。
「自転車ありがとうございました」
「どういたしまして。早苗ちゃん、足は大丈夫かい?」
晴とよく似た優しい目を丸眼鏡の奥で細めて、マスターは言った。
こういう人は間違っても10歳になった娘を抱っこしたり、拳骨で殴ったりはしないはずだ。
体当たりの愛情に文句なんてあるわけもなかったが、どこか都会を思わせる穏やかな父親と、華奢で色白な母親は、早苗の思い描く街のお父さんとお母さんそのものだった。
父親の飲み仲間でもある、ガンや山尾たちの両親に聞くような雑な口を聞くわけにはいかなくて、いつもよりも声も小さくなった。
「はい、でも当分は大人しくしてろって・・・父ちゃ・・・お父さんが」
「ははっ。そうか、女の子だしなぁ。体に傷をつけるような危ない事はしちゃ駄目だよ」
早苗の父親や、早苗の知る大人たちは、危ないことは、恐れず挑戦してみせろと豪快に笑う。
そこで失敗したら、何が駄目だったのかを反省して、分かんなくなったら大人に訊け、と諭す。
子供のうちに興味のあることはどんどんやってどんどん失敗しろ。
怪我しても、傷ついても、子供のうちは直りが早いから、大丈夫だ。
心も、体も。
そんな風に育てられてきたので、こんなふうに”女の子”扱いされたことがなかった。
「・・・はい・・・」
知らないうちに赤くなっていた。
「あの・・・自転車・・・分かりにくい場所に置いてたのに・・」
「ああ、晴樹が帰ってくるなり、店閉めて連れて行って欲しい場所があるっていうからね。あいつがそんな無茶言うのは珍しいから、とりあえず車を出してどこだって聞いたらわかんない、なんて言うからびっくりしたよ」
やっぱり・・・
早苗たちが、絶対に大人には見つからないような場所をと必死に探した隠れ家の空き地だ。
そう簡単に見つけられるわけがなかった。
「覚えてる場所まで行って、晴樹の記憶をたよりにあちこち歩き回ったんだよ」
高齢の夫婦が住む家の裏庭の先にある小さなその場所は、夜になると真っ暗闇のなかに閉ざされてしまう。
よく見ると、腕まくりをしたマスターの筋ばった腕に無数の擦り傷があった。
自分の無茶で自分が怪我をするのはこれまで何度もあったが、こんな風に誰かを巻き込むのは初めてだった。
一気に罪悪感が膨れ上がる。
「あたしのせいでごめんなさい!」
自分のせいで、晴の家族にまで迷惑をかけてしまったのだ。
泣きそうになって謝る早苗に、マスターは首を横に振って平気だよと鷹揚に応えた。
「ああ、こんなの大したことないよ。早苗ちゃんの傷の方が痛い筈だ。晴樹が、スゴイって言ってたよ。あんなに沢山血が出たのに、痛いって一度も言わなかったって」
「え・・・」
「女の子なのに、泣かない強い子だって。だから、自分は絶対自転車届けるんだって、意地みたいに・・・」
そこまで言ったマスターが、何かに気づいたように言葉を止めて、二階に続く階段を見やる。
次の瞬間、階段を勢いよく駆け下りてきた晴が、真っ赤な顔でマスターを怒鳴った。
「父さん!」
早苗は気まずくて弾かれたように目を逸らす。
「お前が来るのが遅いからだよ。はい、ジュース」
カウンターにフルーツジュースの入ったグラスを二つ載せてマスターが意地悪そうに笑う。
晴はジロっと睨み返して、初めて見る剣呑な眼差しのままマスターを詰った。
「おしゃべり!」
そして早苗を促して店の端のテーブル席へと向かった。
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