第5話 仲直り
晴が選んだのは、海がよく見える、窓際の角っこのテーブル席だった。
人が誰もいない喫茶店のなかで、子供が二人だけでポツンと向かい合う姿は、酷く滑稽だった。
緊張している早苗の真向いで、晴はずっと視線を窓の外に向けたまま動かなかった。
転入してきてからの彼は、いつも穏やかで、誰とでもちゃんと目を合わせて笑うことができる男の子だったのに。
早苗の突撃訪問に彼も少なからず動揺しているのだと思えば、ほんの少しだけ気が楽になった。
マスターの作ってくれた特製フルーツジュースは甘くて、とても美味しかった。
これまでは大人と一緒でなくては入れなかった喫茶店に一人で入って、母親と一緒にしか飲んだことの無かったフルーツジュースを一人で飲んだ。
自分がこの瞬間、大人の階段を確実に二段も三段も上ったのだと思ったら、尚更ごめんねと有難うを言えずにうじうじしているわけにはいかなくなる。
バナナとリンゴの甘みがたっぷりのそれで喉と心を潤して、早苗は意を決して晴を見る。
「自転車、ありがとう。それに、送ってくれたのに、お礼も言わなくてごめんね」
「いいよ。すぐ帰っちゃったし、怪我は?」
珍しく素っ気なく彼が尋ねて来た。
普段の晴なら、大丈夫?くらいは言いそうなのに。
「うん、大丈夫、父ちゃ・・・お父さんに毎日消毒されるのが痛いけど」
「俺さー、女の子拳骨で殴るお父さんて初めて見た・・・」
心底驚いた様子で晴がストローを咥える。
早苗が晴にさせたかった表情はまさにそれだったのだ。
早苗自身は叶わなかったけれど、父親の拳骨によってそれが見られたことで、かなり早苗の気分は向上した。
訳もなく胸を張りたくなってくる。
「あたしはあれが普通だからなー・・・うちの父ちゃんて怒るとめちゃくちゃ怖いけど、褒める時はめちゃくちゃ褒めてくれるよ。鬱陶しいくらいぎゅーぎゅー抱きしめてくるけど」
すっかり気が抜けていつもの口調に戻った早苗につられるように、晴もやっと表情を柔らかくした。
「へー・・・、何かにぎやかそう」
「うん、もうすんごいにぎやか!いっぺん晴も来たらいいよ!晩御飯食べに来なよ」
早苗の当然の申し出に、晴が目を丸くする。
「行っていいの?」
「うん、いつでもおいでー。煩いけどね。ガンちゃんや山尾っちのお父さんとか、浜、近コンビも来るから、学校でのことあれこれバラされるけど!あ、でも晴は告げ口されて困る事無いか」
掃除当番の雑巾がけの最中に始まった雑巾野球にいの一番で参戦してしまったことを暴露された時には、翌朝母親から玄関の掃除を言いつけられた。
「行く」
嬉しそうに言って晴が笑う。
ようやく見れた彼の笑顔に、罪悪感が綺麗な掻き消えて見えなくなった。
「風邪じゃなかったんだね。風邪だと思って手紙書いちゃった」
お休みの人には、お見舞いレターを書くのが隣の席の生徒の役目なのだ。
今日、早苗が必死に手紙を書く横に張り付いたガンや華南たちが、色鉛筆やらペンでメッセージやら落書きをしていったので、本日のお手紙はかなりにぎやかでカラフルである。
「母さんが、市立病院に入院してたんだけど、今日が退院だったから迎えに行ってたんだ」
お店に向かいがてら、晴の母親から聞いたことは黙ったまま頷いた。
「そーなんだ、久しぶりにお母さん一緒で嬉しいねー」
「・・・そーでもない」
赤くなった顔を見られたくないのか横を向く晴。
転入初日からどこか大人びて見えていた彼が、珍しく子供っぽい表情を見せてくれて、思わず頬が緩んだ。
早苗は愛情表現が一直線の両親に育てられてきたので、言葉にすることを躊躇うことは無い。
拳骨は痛いけど、父親のことは大好きだ。
「素直に言えばいいのに」
「それはこっちのセリフ。足痛かったくせに」
揚げ足を取られて早苗はふて腐れて黙り込む。
「痛かったけど・・・・あのさ、あたし、謝らなきゃいけないことあるんだ」
「なに・・・・?」
「金曜日の帰り道、週末探検で、すごい危ない岩場とか、崖とかいっぱいあること意地悪して全部は言わなかった。晴が怖がればいいと思ってた・・・・ごめんね・・・・」
「女の子でも行ける道って、馬鹿にしたの俺だし、気にしてないし」
もう終わったことだよとあっさり流されて、それでも頷けなくて言い返す。
「よくない!あたしは意地悪したのに、怪我したら送ってくれて、自転車・・・探してくれて・・・本当にごめんねっ・・・」
物凄く情けなかった。
早苗の意地悪は、怪我プラス2個の親切になって返ってきたのだ。
逆に心がずきずき痛くなった。
「じゃあ、俺が馬鹿にしたのでお互い様ってことにしよ?な?」
最終的にはぐずぐずと鼻を啜り始めた早苗に、晴が慌てたように身を乗り出して来た。
テーブルの上に置いてある紙ナプキンを押し付けられる。
「でもあたしに謝らしてぇー!ほんとに・・・ほんとにごめんねぇぇ」
何がなんでも謝らないと気がすまない。
悪いことをしたらちゃんとごめんなさいを言って、仲直りをしなさい。
それだけはもう何百回も言われ続けて来たのだ。
必死に頭を下げる早苗と、途方に暮れる晴の間で、コンとテーブルに何かが置かれた音がした。
「こーら晴樹、いつまでも女の子泣かせてるんじゃないわよ」
「だ・・・だって」
伏せたままの早苗の耳に母親と晴のやりとりが聞こえてくる。
「あんたが一言許すって言ってあげたらいいじゃない。早苗ちゃんはあんたに許して欲しくて謝ってるのよ?」
「わ、分かったよ。許すから、もう泣くなって!」
両手を上げた降参ポーズで、晴がげんなりを言った。
「ほんとう!?」
彼の言葉に顔を上げると、おもちゃの人形のようにこくこく頷く晴と、それを見つめて面白そうに目を細める母親の姿が見えた。
「ありがとう!」
「はい、早苗ちゃん、涙拭いてね」
差し出された綺麗な花柄のハンカチ。
早苗の母親が愛用しているような、アイロン不要のタオル生地のものではない。
小学生が持つにはちょっと大人っぽ過ぎるそれ。
同級生たちが見たら、わあと羨望の眼差しを向けて来るに違いない。
「貰ってくれる?晴樹のお友達になってくれたお礼」
「ありがとうございます」
お礼を言ってハンカチを受け取る。
「ついでに、私の作ったたまごドーナツも食べてね」
彼女が手にしていた白いお皿の上には、きつね色に揚げられたドーナツが並んでいた。
これまでの気詰まりが一気に消えて、同時に食欲がわいて来る。
「いただきます!」
紙ナプキンで鼻を噛んで、綺麗なハンカチで涙を拭って、ようやく笑う事が出来た。
息子達の様子を確かめた彼女は空のトレーでゴンと晴の頭を叩く。
「いーってぇ!」
「泣かせちゃったら、その分笑わせてあげなきゃ駄目でしょ?ったく、あんたはまだまだねー」
「うるせーよ!!」
カウンターに戻っていく母親に向かって、晴が今日一番の大声を投げた。
何処の家でも見られるような一場面に、不思議なくらいホッとした。
都会っ子の一家が一気に身近な存在に思えて来る。
「なんだよ?」
「晴の家は、おばさんが強いんだ?」
「そう、早苗ちゃん家と逆な」
「早苗ん家」
早苗の訂正に、一瞬戸惑って晴が言い直す。
「早苗ん家と逆な」
「そーだね。あ、ついでに宿題のプリント一緒にやろ!あたし教えてあげるし!」
「取ってくる!」
言うなり晴が大急ぎで二階に続く階段を駆け上る。
二人で算数と社会のプリントを片付けて、それから今度は早苗の家に行く事になった。
今日は晴と仲良くなってから初めてのお家遊びで、いつものように駆け回る事が出来ないので、従兄から貰ったボードゲームを広げていると、仕事から帰ってきた父親が晴を見つけて、早速声を掛けて来た。
「晴坊!飯食って帰れ!な?」
これは、早苗の友達に毎回父親が言うセリフである。
帰りが遅り息子を迎えがてら、引っ越しの挨拶にやって来た晴の両親も巻き込まれ、そのうち縁側の賑わいを聞きつけた近所の人も集まって、いつもどおりの大宴会となった。
足の痛みも忘れてはしゃぎまくった早苗と晴は、夕飯の後すぐに仲良く眠り込んでしまった。
こうして、彼らの15歳までの短い”春”は始まった・・・
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