第77話 穏やかに笑う君と

開店間もない店のドアを開けて入ってきた、家族同然の娘の姿にマスターは目を細めた。


「おはよう。一番乗りだよ」


「やった」


その言葉に頷いて、早苗はにっこり微笑み返した。


そうして、ずいぶんと久しぶりに”指定席”に座った。


彼女がここに戻って以来、時折物思いにふけるようにその席に腰かけるのを、ずっと見てきた。


だから、早苗がいま、ひとりになりたいこともちゃんと分かっている。



何も訊かずに晴ブレンドを早苗専用カップに入れて持っていくと、視線だけで頷いた。


そこに、もう迷いは無かった。



報告に、来たんだろう。



朝の光が射す窓越しの席にポツンと座る早苗を遠目に眺めて、ふいに、向かいの席に座るもう一人の子供を思う。


当り前のように一緒にいた、ふたりを。


早苗はゆっくりと陽に焼けたテーブルの落書きを撫でた。


まるで話しかけるようなしぐさだった。


10代の、一番尊い記憶が、ここには沢山眠っている。


大好きな笑顔と共に。


油性ペンの文字はもう掠れてほとんど読めない。


カッターで切り付けた傷も指で触り過ぎたせいで滑らかになってしまっている。


大事な、大事な記憶だ。


「・・・・はーるー・・・・あたしねぇ・・・決めたよ・・・・幸せんなる・・・・だから、ちゃんと、見てて」


呟いた声はとてもとても小さくて、けれど、まっすぐにテーブル落ちた。


返事がないことは分かっているので、早苗は頷いてカウンターに飾られている昔の写真に微笑みかける。


一番、大好きな笑顔で。


そうして大きく深呼吸した後、離れた席で新聞に目を通すマスターに呼びかけた。


「・・・おっちゃん・・・聞いて」


「はいはい」


穏やかに返事して、ずれたメガネを直しながらゆっくりとした歩調で、二人の指定席まで歩いてくる。


足音と、ラジオの音楽だけが店を包み込んでいた。




「・・・・ゆっくり話はできたかい?」



マスターの問いかけに早苗は眉を下げて泣きそうに笑った。


そうしてはっきりと頷いた。



「一番に言うのは、晴と15のあたしって決めてたから。・・・栄えある2番目をおっちゃんに捧げるよ」


「・・・そりゃあ光栄だ」


「うん・・・・あのね・・・・颯太と結婚するね・・・井上早苗に・・・なるよ」




ただそれだけのことなのに、言葉にしたら涙が溢れた。


そんな風に思ったことはなかったのに。


もう二度と、晴と同じ苗字になることはないだと、いま初めて、そんな風に思った。


未練なんてこれっぽっちも無いのに、それでも15のあたしは叫びたいほど寂しいのか・・・



「・・・・颯太くんなら安心だ・・・安心して・・・嫁にやれるよ・・・・って、僕が藤野さんのセリフ取っちゃまずいか」


ちょっと笑ってマスターが早苗の頭を撫でた。


早苗は零れた涙を指で拭って首を振る。


「・・・ごめんね・・・」


「どうして謝る?・・・僕はね、約束したんだよ、晴樹と。さなちゃんが幸せになれるまで見守るって。晴樹の分も、さなちゃんの幸せを祈るって」


早苗の指に光る細いリングを指でそっと撫でてマスターはその手を挟むみたいにして両の手で握った。


「・・・ちゃんと、幸せになるんだよ。さなちゃんが目一杯笑って暮らせる事を・・・誰よりあの子が望んでる。だから、あの、寒い寒い冬の日に、颯太くんを連れて来たんだよ」


誰が、とは言わなかった。


藤野がその年の冬、店でぽつりと漏らしたのだ。




「・・・早苗・・・・結婚するかもしんねーよ・・」


「いい人でも出来たの?」


マスターの問いかけに、藤野は苦笑交じりに煙草に火を付けて呟いたのだ。


「男親のカン・・・晴坊が連れて来たのかもしんねーなぁ・・・正井のじい様の孫・・」





それから春が来て、夏が終わりを迎える頃、早苗と連れ立って店に来るようになった颯太。


彼は、あっという間にこの町に溶け込んでしまった。



正直戸惑いが無かったわけではない。


これまでの早苗のことを考えると、慎重にならざるを得ないことが多々あった。


彼女の中から欠落してしまっている、”恋愛感情”そして、それをどこかで強く拒絶する、優しい記憶。


幼馴染ですら見守ることしか出来なかった、早苗の内側の部分を、くるっと包み込むように受け入れてしまった奇特な人物。


この町を離れていた間に、少し変わった彼女を、家族ではなく、他人として、受け入れて、側にいてほしいと願った颯太。


彼じゃなくては駄目なんだろうと思った。


晴と作った記憶を抱えたままで幸せになるために。


・・・・・・無意識にでも、ちゃんと自分に必要な人だって理解してたんだよな・・・・


二人の間にどんな経緯があったのかは分からない。


けれど、今、こうして、別の幸せを自分で見つけて掴んだ彼女の涙を拭いて、背中を押してやること。


それが、他の誰でもない、晴の父親の役目なんだと知っていた。


”おっちゃん”として“娘”を送り出すこと。


それでも、やっぱり想像以上に胸は傷んだ。


けれど、マスターはそっと息を吐いて丸眼鏡の奥の目をうんと細めて早苗と視線を合わせた。


「幸せになる人が、ごめん、なんて言っちゃだめだよ。いいかい?さなちゃんは、あの日、言ったとおり、ちゃんと自分の未来を見つけたんだ。これからずっと続いて行く未来だよ。だから、迷わなくていい。信じて進みなさい。晴と、僕が、ずっと見守ってるよ」


「・・・・・・・・・・・・・・ありがとう・・・」


必死に涙をこらえる早苗の頬を大きな手で撫でて、マスターは大げさに両腕を開いてみせた。


「・・・晴の代わりに・・・抱き締めてもいいかい?」


返事の代わりに早苗は思いきりマスターに抱きついた。


背中に回った細い腕の感触に、堪えていた涙が頬を伝う。


・・・晴、お前が大好きな人がお嫁に行くよ・・・・・精一杯、祝ってやろうなぁ・・・・


「ありがとう・・・」


早苗の言葉にマスターは涙声のままで言った。


これで、ようやく心から伝えられる。


嘘偽りなく、純粋な喜びと、ほんの少しの寂しさを。


「おめでとう」


その一言に、早苗はマスターの腕の中でただ何度も頷いた。


いつかのように、目を閉じると、あの日の穏やかな晴の笑顔が浮かんだ。


・・・空の上から・・・・祈っててね。

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