第10話 時には昔話を

病室のドアをノックすると返事が返ってこなかった。


疲れて休んでいるんだろうか?


静かにドアを開けて中に入るが、やっぱり、彼女の姿がない。




綺麗に整えられたベッドを前に、思わず足が竦んだ。


遠くない未来。


必ず自分を残してこの世を去るまどか。


跡形もなく、その存在が目の前から消えてしまう日が来る。


几帳面な性格そのままに、皺一つないシーツ。


枕元には彼女の好きな薔薇。


少しずつ、あの家から彼女の気配が消えていく。




どんどん濃くなる病室の重い空気。


それを振り払うかのように必死に笑う彼女。




それでも時間はこの指の隙間から零れ落ちていく。


しんとした静けさの中に、彼女の気配を何とか探ろうと耳をすませてみる。





何かじゃなく、彼女の生きた空気や、まとうオーラのようなそんなものを必死に探ろうとする。



いなくなってしまっても。


いつでも思い出せるように。


この体と、心に刻んでおきたいと思う。




残りの長い人生を、折れずに、一人で生きていけるように。


晴樹を守っていけるように。


君の面影を追わずに生きていけるように。





「立ちすくんでどうしたの?」


背中からかかった声に、振り返る。


お気に入りのオレンジのカーディガンを羽織ったまどかが真後ろに立っていた。


にこりと笑ってこちらを見上げて来る。


また輪郭が小さくなった気がして、思わず視線を逸らした。



「いや、うちのしわくちゃのシーツを思い出してたんだ」


「ちゃんと、シーツも洗ってね?」


「昨日晴樹と家中必死で片付けたよ。さなちゃんと奥さんが来てくれて大量の洗濯物を処理してくれたし・・・おかげで家はいま、クリーニング屋状態だ」


「わあ!洗剤のCMみたい?」


「オファーがきそうだよ」


「写真に撮ってほしかったわ!いい記念になるのにー」


笑いながらベッドに腰掛ける彼女の向かいの椅子に腰を下ろす。


右手に持っているあんぱんが目に付いた。


「めずらしいね、食欲あるの?」


先ほど顔を出した診察室では、担当医からまた食欲が落ちていますと言われたばかりだった。


「・・・昨日ね、夢を見たのよ。それで食べたくなって買いに行ってきたの」


久しぶりの笑顔に嬉しくなって頷く。


「ブレンド持って来たよ。飲むかい?」


「嬉しい」


袋を開けて、まどかがあんぱんに豪快に齧りつく。


持ってきた保温容器からコーヒーを移して、彼女の好みに合わせてミルクと砂糖を入れる。


そして、思い当たった。


「あんぱんの理由、わかったよ」


僕のセリフに目を輝かせてまどかが笑う。


「本当?ふふ、懐かしいでしょう?」


「アレは結婚してからもずーっと言われ続けたからなぁ・・・」


「だって、あなたが私の好物の中で唯一間違って覚えたのがコレだったのよ?ネタにしなきゃウソでしょう」


「そりゃそうだ、熱いからね」


「んーいい匂い」


マグカップを受け取って、一口。


「これ、この味よ」


満足げに言う彼女を見て、僕も笑う。


窓の外を見ると、さっきまで夕焼けが彩っていた空はすっかり深い藍色に染まっていた。






・・・・・





あの日は夕焼けがとてもきれいだった。


出かけた帰り道で、僕は車を停めた。


テレビで見た美味しいパン屋さんに寄る為だ。


パン屋でバイトをするほど、パンが好きな彼女を喜ばせる為だった。


焼きたてのあんぱんを、数個買いこんで車に戻る。


夕焼けが綺麗な公園のベンチで、並んで座って彼女に紙袋を差し出した。


きょとんとしながら、紙袋を開けるまどかに意を決して言う。




「結婚しよう」


「・・・・これ・・・」


パンをひとつ取り出してまどかが言った。


「大金持ちにはなれないけど、君の好きなあんぱんくらい。何十個だって買ってあげるよ」


死ぬほど勇気が言った。


僕が真正面を向いたまま待つこと数分。


彼女がゆっくりと、息を吐いた。


この時ほど緊張したことは無い。


それから、笑いを堪えるように眦を下げた。


「あんぱんは好きじゃないけど、あなたのお嫁さんにしてください」


「・・・・・ええええー!!!」


転げ落ちるかと思うほど僕は仰け反った。


そんな様子に、堪えきれなくなったのか彼女は背中を丸めて笑い出した。


華奢なその手にあんぱんを掴んだままで。


喜んでいいのか、悲しんでいいのか分からないまま、僕はとりあえず震える声で言った。


「あ・・・ありがとう・・・・」


「私が好きなのは、クリームパンよ?」


どこでどう間違ったのか?


未だに原因は謎のままだが、おかげで僕はこうして彼女と結婚することが出来た。




その2年後には晴樹が生まれた。


好きな人と死ぬまで一緒にいる権利と、好きな人の子供をこの腕に抱く権利を手に入れた。


野心家とは決して言えない僕の夢は、家族を作ることだったので。そのふたつが叶って、これ以上ない幸せを感じて今日まで生きてきた。


毎日が幸福の発見。



まどかが純白のウェディングドレスを着て僕の前に現れたときには心底神様に感謝した。


晴樹が生まれたときは、世界中の人にキスして回りたいくらい嬉しかったし。


家族で近くの公園を散歩途中に、綺麗な虹が見られたときも、幸せだった。


寒い夜には家族を抱きしめて眠ったし、嬉しい事があるたび、言葉とキスで家族に伝えてきた。


君たちは僕の、本当に大切な人なんだ。




だから、まどかの病気が発覚した時も、決して希望は捨てなかった。


これだけ、僕が愛情を注いだ人を、神様だって僕から奪えるわけが無い。


晴樹をあんなに可愛がる人が遠くに行くはずが無い。


僕の祈りは届いて、彼女は僕たちの元へ帰ってきた。



つかの間の至福の時間。


半年ちょっとの、短い、神様からのプレゼント。




「家族で過ごす時は、泣かない事。私たちの悲しい顔を晴樹の記憶に残しておきたくないの。いつだって、笑っている母親でありたいのよ」




まどかがこの世を去った後、晴樹が寂しいと思うたび、浮かんでくるのは、いつだって最高の笑顔で笑う自分でありたい。


再入院が決まった朝、車の中でまどかが言った言葉。


僕たちは、その約束をずっと守っている。





「あの日のあなた、真っ赤になって、可笑しかったわ・・・」


半分残ったあんぱんを僕に渡して、彼女が自分の隣をとんとん叩く。


並んで座って、また少し細くなった肩をそっと抱き寄せる。


肩に掛かる重みが余りに軽くて、残された時間の短さを改めて感じさせられる。


砂時計をひっくり返すすべがどうしてないのだろう。



「あんぱんが好きじゃないなんて、思わなかったんだよ」


「私は好きなものいっぱいだもんね。クロワッサン、たまごドーナツ、カレーパン、コロッケパン・・・・」


「ラスクに、紅茶クッキー、ベーグルにワッフル」


「おかげで今じゃ、あんぱんが一番の大好物よ」


そう言って、僕の頬にキスをくれた。


「あのまま君があんぱん嫌いだったら、僕は一生笑い話のネタにされるところだった」


「そりゃそうよ、あんなプロポーズ・・・ふふ、幸せだったなーあなたが、私をどんなに好きか、めちゃくちゃ伝わったもの。私を幸せにしてくれる人はこの人だって、確信したのよ」


「・・・僕が、もっと野心家で、今もサラリーマンを続けてどんどん出世してたら今とは違った未来があったのかなぁ・・・・」


この10数年で、一生分の幸せを使い果たしてしまった気がする。


もっと貪欲に、幸せを追い求めていたら、神様は僕から彼女を取り上げようとしなかっただろうか?


「毎日遅くまで残業して、晴樹が寝た頃に帰ってきて、休みの日は昼まで寝てるような?」


「・・・・そうだね・・・」


「そんなあなただったら、私はとっくに晴樹を連れて家出してるわ」


まどかの始めての家出発言に僕は目を丸くした。


「僕がサラリーマンだった頃、一度でもそう思ったことあった?」


「そうねー・・・3回はあったかなぁ」


「知らなかったよ」


「思っても、出来なかった。家族のために、頑張って働いてくれてるあなたを知ってるから。だって、あなたから私と晴樹取り上げたら、何にも残らないじゃない?」


自信満々で言うまどかの横顔が昔と同じように輝いて見えた。


毎日忙しく、けれど生き生きと過ごしていたあの頃。


「よく分かってるね。そうだよ・・・僕は君がいなくなったら本当に困るんだよ」


「だから、晴樹を残せて良かったって思ってるのよ。あの子は、強いわ。きっとあなたより、ずっと強い。だって私が産んだのよ?どんなに泣いたって、ちゃんと頑張って生きていってくれるわ」


「・・・・僕も君から生まれたかったよ。そうしたら、もう少し長く君と一緒に居られたのに・・・」


「あーら、そしたら、あなたは私と結婚できないじゃない。晴樹は生まれて来れないわ」


「それはもっと困るな・・・僕の大事な生きがいだよ」


目を伏せて泣き笑いの顔になれば、まどかが僕の手をぽんと叩いた。


「・・・・ねえ、あなたが1人で生きていけるなんて、私思ってないのよ。私が居なくなった後、寄り添えそうな奇特な女性が居たら迷わず再婚して頂戴ね。もちろん、晴樹も賛成してくれる人で」


明日の天気でも話すように、まどがが言った。


僕は彼女の顔を見ることが出来ずにそのままきつく抱きしめた。


「そんな人いるわけないじゃないか」


「世界は広くて、出会いは無数にあるの。一度きりの人生よ。私1人に縛られないで」


宥めるように、僕の背中を叩く彼女は、どこまでも穏やかだった。


その穏やかさが心底憎らしい。


そんなこと出来るわけが無い。


僕の心全部を持って行こうとするのに、空っぽの心を誰に渡せって言うんだ。


そして、同時に知っている。


彼女が誰より、僕と、晴樹を愛している事を。


痛いほど、知っているんだ。




「まどか、こんなときに、強がらなくていいよ。めいいっぱい、甘えていいんだ。忘れるなって泣いていい。他の女と再婚したりしたら許さないって。・・・頼むから言ってくれよ」




僕は腕に納まって黙っている彼女が、必死に泣くのを堪えていることも知っていた。


「先に逝く人間に、残る人の心を縛る権利なんて無いのよ」


「頼まれたって忘れたりしないよ。君の家でもあるあの家に他人を入れたりするわけ無いだろう?」


「・・・あなたと、年を取って、皺くちゃになっても手を繋いで歩いて、お店でおしどり夫婦なんて言われて、ふたりで晴樹の子供を馬鹿みたいに可愛がって。そしてね、ずっとあなたの淹れた珈琲飲むの・・・・・・・・・なんで・・・もう叶わないの?」


箍が外れたように、まどかは僕にしがみついて泣いた。


再入院が決まった日から一度だって弱音を吐いた事の無い彼女の始めての本音。


彼女の望むものすべて、僕が叶えてやれたらいいのに。



「僕が、いつも思う未来に。君が居ないことは一度だってなかった。ふたりで年をとって、ふたりで死ぬんだと本気で思ってたよ」


まどかの髪を撫でる。


僕のシャツの肩がじっとり濡れるほど、まどかは泣いた。


「でも駄目よ。あなたは生きて。晴樹を残して死なないで。私の分もあの子を守って。あの子が家族を作る日まで。ちゃんとあの子を見ていてね」


「・・・・・・・・・・・約束するよ」


「絶対よ。私があなたを迎えに行くときまで。それまで、楽しく生きて行ってね」


「分かったよ・・・晴樹と。君の分も、沢山のものを見て、感じて、幸せを知って、生きていく」


「絶対よ」


何度も確認するまどかを宥めるように、抱きしめて僕は何度も同じ返事を繰り返す。


少しの不安も感じることなく彼女が眠りにつけるように。


泣きつかれた彼女をベッドで休ませると僕はゆっくり立ち上がった。


ウトウトしていたまどかがうっすら目を開ける。


「・・・ごめん、起こしたね・・・そろそろ帰るよ。明日、学校が終ったら二人で来るから」


「うん・・・・・・・・待ってる・・・ねえ、あなた・・・・明日もあんぱん買ってきて。それと、やっぱり再婚しないで」


「分かってるよ・・・美味しいの買ってくるよ」


腫れたまぶたにキスを落として、僕はまどかにおやすみを言う。


病院を出ると、空には星が広がっていた。


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