第9話 予感

自宅療養を続けていた晴の母親が体調を崩したのは秋の終わりの11月の初めだった。


体調が良いからと店に出たところで倒れたらしく、運ばれた病院でそのまま即入院となった。


何でも、癌が転移していたらしい。


難しい顔で病気の話をする両親の側に居たくなくて、家にいる時は自分の部屋よりも一階の和室で過ごすことの方が多いのに、その時は二階から降りようとはしなかった。


だから、晴の母親がどんな状況かは分からなかった。


それでも、少しずつ元気を無くしていく晴を見ていると大人の話を聞かなくても、あまり良い状態でないことは明らかだった。


学校を休む日が増えて、週末の草野球にも顔を出さなくなった。


週末ごとに店を閉めて、1日看病に行くマスターの真摯な姿は、妻への真摯な愛情に溢れていた。



早苗がお見舞いに行くたび、病室で交わされる二人の幸せそうなやりとりを少し離れたところから見る晴は、どこか誇らしげで、早苗が知る彼よりも少しだけ大人びて見えた。


「おばさーん、来たよー。今日のお花はコスモスでーす」


「いらっしゃーい。わ、綺麗ね、いつもありがとー」


「うちのお母さんが玄関に咲いてたの取って来てくれたの」


「そう、お母さんにお礼言っておいてね」


「はーい」


ベッドで起き上がって本を読んでいた晴の母親は、本にしおりを挟んでベッドの脇に置くと、差し出した花を嬉しそうに受け取る。


温かそうなカーディガンを羽織るその背中が、さらに薄くなったことにすぐに気づいた。


出会った頃からほっそりと華奢な身体をしていた彼女は、このひと月ほどですっかりやせ細ってしまった。


「花瓶に入れるね?これでいい?ちょっと小さい?」


「ううん。大丈夫。あ、それぐらいするわよー。ちょっとは動かなくちゃ」


早苗を手で制してベッドを降りると、洗面台に置いてあるグラスをゆすぐ。


その節ばった細い指が、グラスを落としはしないだろうかとハラハラしてしまう。


最近は食事もあまり食べられていないようだった。


「見て、晴樹が飲んだ牛乳の空き瓶、ぴったりじゃない?花瓶買うってお父さんが言ったんだけどね、これで十分って言ってやったのよ、ね、結構いいでしょ?」


「ほんとだー」


綺麗に咲いたコスモスを枕元に飾っていると、マスターと晴が入ってきた。


手にしていたパックを差し出して、晴が首を傾げる。


「早苗、どっちがいい?」


「ミルクティー」


「やっぱりな、はい」


ミルクティーを早苗に差し出して、カフェオレにストローを指す。


晴は枕元のコスモスを見てすぐに笑顔になった。


久しぶりに、晴の笑顔を見た気がする。


最近は、登下校の会話もどこか上の空だったのだ。


「まどか、これ、頼まれてたはおりもの」


マスターが紙袋から柔らかいカシミアのカーディガンを取り出した。


「あら、このカーディガンの場所分かったの?」


絶対見つからないと思ったのに、と母親が笑う。


「晴樹と二人で探したんだよ、な?」


「おかげでクローゼットめちゃくちゃ」


マスターを見上げて晴が呆れた顔をする。


彼女は笑ってお礼を言って、若草色のカーディガンを脱いで、オレンジ色のロングカーディガンを羽織った。


こちらのほうが、彼女の顔色をいくらか明るく見せてくれた。


「帰ったらすることがいっぱいねー、とりあえず、ダンボールにでも放り込んでおいてね」


母親の療養のために都会から片田舎の町に引っ越して来たこと、本格的な衣替えの前に、妻が入院生活に戻ることになって、二階の居住スペースはほぼ手付かずの状態が続いていることは、晴がそれとなく聞いていた。


何よりも母親の体調優先で、親子が二人三脚で今日までやってきた事は、誰よりも早苗が分かっていた。


「衣装ケース買いに行ったよ。僕のしまい方が悪いのかなぁ、どうしても入らない服が出てくるんだ」


マスターが心底不思議そうな顔をする。


こだわりのない彼は、整理整頓が得意ではないらしく、お店のグラスも色んな場所から出てくるし、とにかく置き忘れが多い。


「あなた昔からそうじゃない、入れた場所が分からなくって何度も引き出しひっくり返してたでしょ?」


本当に困るわ、とちっとも困った素振りなく晴の母親が零す。


「そのたびに君に怒られてたなぁ・・・」


マスターが照れたように後ろ頭を掻いた。


「いつだったか、昔のコートのポケットから女の子からの手紙が出てきたこともあったじゃない」


「ええ!?おじさん!?」


「父さんー」


がっくりと肩を落とす晴。


早苗は、マスターがモテる理由は子供心に何と無く分かる気がしていた。


「あ、あれは独身のころの・・・」


「それでも、結婚前には処分しとくべきものよ!ねえ、さなちゃん!」


同じ女として同意を求められて慌てて頷く。


「う・・・うん」


「結婚前も、今も、いつだってまどか一筋じゃないか」


「そんなこと知ってるわ!」


は・・・?うわー・・・


突然の告白劇に、真っ赤になって立ち尽くす。


視線を泳がせていたら、腕を引っ張られた。


「売店行ってくる」


居た堪れなくなったのだろう。


それも当然だ。


早苗は晴と一緒に急いで病室を出る。


「ほんとにいっつも仲良いねー、おじさんたち」


「うんざりするけどな、間近で見てると・・・・・・でも、笑ってると安心する」



掴まれたままの腕に触れる指が、震えていた。


前を歩く晴の顔は見えない。


いや、見えなくて良かった。


早苗は、晴の指を離すと、今度は自分から手を繋いだ。


一瞬強張った手の力が緩んで、そっと繋ぎ返してくれるまで、早苗は祈るような気持ちで待った。




どうか、この手を解いてしまいませんように。


ひとりで歩いていこうとしませんように。




足早に歩いていた晴の歩幅が狭くなって、やがてゆっくりしたペースになる。


そして、そっと早苗の手を握り返してくれた。




よかった。


これで、少しは晴の不安を取り払ってあげられる。


寂しい思いも、楽にしてあげられる。


それは確信。


今の、あたしにしか出来ないこと。





この日、初めて手を繋いでから、あたしたちは。


やって来る最後の日まで。




不安な事があるたび。


心細くなるたび。


嬉しいことがあるたび。


楽しいことがあるたび。


何も言わず。


何度も手を繋いだ。


そうやって、互いの存在を確かめてきた。


1人じゃないことを、確かめ合ってきた。

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