第73話 海と初空

散歩に出たのは何でもない、ただ歩きたかったから。


元旦から挨拶にやってくる親族もいない我が家である。


いつも通りの穏やかな年明けだ。


出かけると言ったら、颯太からはお雑煮ができるまでに帰ってくるように言われた。


自分の変化には、なんとなく気づいていた。


でも、確かめるのはまだ怖い。


嬉しいというよりも、怖い。


お酒を頼んでいたガンちゃんの店を覗いて、正月の挨拶をした後、神社に寄って海岸へ。


自分のペースを崩されないから、ひとりは楽だ。


颯太は、そういうあたしの気配を察してくれるから、何も言わずに見送ってくれた。


しっかり上着とマフラーと帽子はセットされたけど。


朝8時の海は、静かで、波も穏やか。


砂が冷たいことは承知で座り込む。


朝陽はあったかくないのに、あったかく感じるから不思議だ。


朝が来るのを嬉しいと思う人間の心理がそう感じさせるんだろうか?


初詣に行く人がちらほらと海辺を歩いて行く。


年明け早々なーにやってんだぁ?とか思われてるんだろうか。


大きく伸びをして、ゴロンと砂浜に寝転がると淡い冬の澄んだ空が視界一面に広がった。


痛いほど冷えた冬と、日が昇る直前の夏の朝が好きだ。


一番空気が美味しくて、この世界を好きになるから。


そして、波の音があればもっと素敵。


どうしてここを離れて生きていけるなんて思ったんだろうか?


あたしは、誰よりこの町を、この海を愛してるのに。


街の雑踏や、ネオンや、車の排気ガス。


そんなものに埋もれることで、胸の傷を埋めようとしてた自分が恥ずかしくて、情けない。


でも・・・だから、彼らに会えた。


たった1年で、あたしの気持ちを溶かして、丸くして整えて行った人たち。


強く、鮮やかな、眩い、季節たち。






「・・・・・・・もといー」


口にしたら、じんわりと寂しさが広がる。


目を閉じたら、砂を踏む足音が聞こえてきた。


規則正しく鳴るその音がすぐそばで消える。


そして、あの、耳になじむ穏やかなアルトが聞こえた。


「やあ、親友。元気かい?」


目を開けたら、目の前に基が立っていた。


「・・・・・・・・・うっそだぁ・・」


「・・・・久々の感動の再会にそのセリフは頂けないねェ」


ショートカットの短い髪と、相変わらず濁りのないまっすぐな瞳、ほんのり染まった淡い頬。


整った見た目とは裏腹なサバサバとした男口調。


あたしの知ってる、基そのまま。


寝転がって見上げたまま、ポカンと口を開けるあたしを見下ろして基がカラッと笑う。


「寂しがってると思って、寄ってみました」


「・・・・ほ・・・・ほんとに・・・・?」


信じられなくて、手を伸ばすあたしの指先が彼女の柔らかい頬に触れる。


まぎれもなく、生きてる人の、ぬくもり。


「嘘ついてどうすんのさ。ここまで来るのに何時間かかったと思ってんの?日本に戻ったときにやりとりした年賀状引っ張り出して、住所調べてさぁ。ちょっと探偵みたいな気分だったよ」


そう言って、あたしと並んで寝転がる基。


「・・・いつ・・こっちに?」


「んーと、おとといの夜。大地が急にこっちで写真の仕事が入ってさぁ。それに乗じて一緒に戻ったんだ」


英国を拠点にあちこちを旅しながら過ごした彼らは、基のエッセイ作成が落ち着いた後も世界中を旅していたようだ。


最近では、大地が本格的にカメラマンの仕事を初めて別行動も増えて来たといつかのメールに書いてあった。


”基がひとりで歩けるようになったから”


これでようやく対等にやっていけると彼は踏んだようだ。


”それじゃあまるで、お荷物みたいだろ!”


と頬を膨らませたのは基で、初の国際電話で、ケンカの仲裁役をさせられたのはあたしだ。


あれから、もう2年以上経つのだ。


「・・・・・会いたかったよ」


あたしの小さな呟きに、基が笑って頷いた。


「・・・会いたかったよ?」


そうして、顔を見合せて笑いだす。


なんだかくすぐったくて、どうしようもない。


「なんで最近のバカップルみたいなやりとりしてんのかね?」


基のセリフに余計笑いがこみ上げてて、あたしは声を上げて笑った。


さっきまでの不安も、心細さもあっという間に吹っ飛んでしまった。


基の持つパワーはすごい。


空が、さっきよりもずっと明るく見えた。


たったひとりの人間に会えただけなのに。


まるで魔法にかかったみたいに、世界が色を取り戻した。


一瞬のあいだに。





「それにしても、なんでまた元旦に?・・・・ってかそれより、あんた、仕事どうなの?一応、本見付けたら買ってるけどさ」


「相変わらず質問の多い人だなぁ・・・・正月の、浅海家の家族写真を撮ってほしいって依頼があったからさ。大変なんだよ。大地の弟んトコに、初孫のそれもかっわいい女の子が生まれたもんだから。本家の志堂まで大騒ぎになっちゃって・・・ほら、あの家って孫ってふたりとも男の子だからさー家族総出で大騒ぎ・・あの子がお嫁に行くことになったら、本家も分家も大変だと思うなぁ・・・勿論ちゃんと仕事はしてるよー。雑誌に連載続けてる。毎度お買い上げありがとうございます」


「・・・そっかぁ・・・え、連載ってファンタジー?恋愛もの?推理もの?」


「今やってるのは、別の作家とのコラボ連載でねー。悸醍巧弥きだいたくみって知ってる?結構有名な小説家なんだけど・・・・」


「あー・・なんか書店で平積みされてるの見たことあるかもしれない・・・」


「そいつと、一緒に合作で描いてんの。かんなり頭の回る策士な男でねェ・・・・・いけ好かないけど面白いよ。来月あたり、1冊目出るから読んでみてー」


「・・・・・頑張ってるんだね」


「これしか無いからね・・・武器は」


そう言った基の横顔は、自信に充ち溢れていて、こちらまで強くなったような気がしてしまう。


この2年で、彼女は確実に成長していた。


華奢で、小さい女の子だったのに、今は、その真ん中に折れること無い信念みたいな強い意志が見えるようだ。


あたしは、何か変われたかな?


胸を張れるよなことがあったかな?


離れてからの流れた沢山の月日をゆっくりと自分の中で思い巡らせてみる。


と、基が真上の空を指して言った。


「コレ。初空って言うんだよ。知ってる?」


「へ・・・?」


「年明けて、最初の空をそう呼ぶんだってさ。こっちに来る時の電車の中で大地に教えて貰った。まっさらな、一番目の空だよ。早苗と見たいなぁって思ったんだ。だから、来られて良かった」


胸に染み渡る、柔らかい、優しい声。


広がったあったかい気持ちに泣きそうになる。


基はにっこり笑ってから、あたしの方を見た。


「・・・恋をしたんだね・・・」


あたしの不安を見透かしたような、静かな声。


滲んだ視界のままで頷けば、涙が頬を伝う。


「・・・・・うん・・」


息が苦しくなって、自分が自分じゃないみたいで。


怖くって確かめられなくって。


優しくされればされるだけ、臆病になる自分がいる。


”大好き”と叫べば、笑ってくれるって。


ちゃんと分かってるのに。


まだ、彼のくれた告白に明確な答えを差し出せずにいる。


あたしの頬を片手で包み込んで、基が泣きそうに笑って言った。


記憶の隅で、晴の笑顔が過ぎる。


「・・・すごいよ・・早苗。ちゃんと、泣いて、ちゃんと、抱えて、今日まで生きて来たんだね。しまい込まずに、抱きしめてきたんだね」


あの日、朝陽の差すバス停で。


走り始めたバスに向かって基が言った言葉。


胸に突き刺さって、広がって、それからのあたしを作る大きな大きな糧になった言葉。


「・・・大事にしてきた・・・汚したり・・・濁らせたり・・・しないで・・・大事に・・・抱きしめて・・・一緒に生きてきたよ・・・・・」


いつだって一緒にいたから。


あたしが楽しいなら、きっと、晴も楽しい。


それだけは、自信あるんだよ。昔から。


「うん・・・そうだね・・見れば分かるよ。・・・頑張ってたこと・・・後・・・まだ、ちょっと不安なことも」


僅かに視線を彷徨わせたあたしの手を握って、基が言い聞かせるみたいに小さく囁く。


「大丈夫。ホントは誰より怖がりなきみにとっておきの魔法を届けに来たんだよ・・・・早苗が幸せになれるのを見届けるって、最初に会った日に決めちゃったからさ」


僅かに空を映す深いはしばみ色の瞳。


あたしは息を飲んで、その眼を見つめ返す。


波の音は静かで、空は晴れてて、基の言ったとおり。


まるで生まれたてみたいな、無垢で、尊い朝。


こんな綺麗な景色の下でなら、なんだって出来る気がする。



「・・・大人になるっていうのはねぇ・・・色んな事を知って、本当に必要なものと、そうでないものを、ちゃんと見分けていけるようになる事だと思うんだ。だけど、中々うまくはいかない。人間は欲張りだから、取り零すのを嫌がるし、手に入らないものほど欲しがる。抱えたものを捨てるのなんてなおさらだ。だから、みんなどっかで諦めて、ここまでだって見切りを付けて、今の自分に折り合いをつける。頑張るのは楽じゃない。くたくたになるまで続けるのは疲れるし、回復までに時間もかかる。色んな言い訳をして、現状を受け入れてるんだよ。でもね・・・・早苗は違う。捨てなかったし、次のものを欲しがらなかった。今あるものを、無くさずに、大事にあっためてきたんだね。ちゃんと、消さずに、その強い記憶を自分の一部に出来たから、もう前に進めるよ。だから、颯太に会えたんだ。大丈夫。晴との記憶は無くならない。上書きするんじゃ無く、積み重ねていくんだよ。これからの、早苗の幸せを。彼の手も、きっと、晴と同じように、あったかい。早苗が泣いたら、抱きしめてくれるし、悩んだら一緒に答えを探してくれる。そうだろ?・・・違うか?」


雲が滲んで、空と一緒くたになって、やがて何も見えなくなった。


泣くじゃくるあたしは、両手で顔を覆って必死になって基に言った。


「・・・ちがわない・・・」


「うん。なら、大丈夫だ。最後の背中はあたしが押すよ?晴の分も、あたしが押してやる。だから、自分の気持ちが定まったら、ちゃんと待ってる颯太に言うんだよ」


体を起こした基が、あたしの腕を引っ張り上げる。


砂まみれの髪を払ってから、相変わらず細い腕でそっとあたしを抱きしめた。


ようやく風の音も波の音も蘇ってきた。


すすり泣きのままで彼女の短い髪を撫でる。


腫れた瞼を冷やしながら、ぽつりぽつりと話した遠い夜を思い出して、あたしは基を抱きしめ返す。


どんなに強くなっても、中身はあの日のまんま。


変わらない。






・・・・・・・・・・







「あけましておめでとー」


年がら年中開けっぱなしの縁側から声がして、帰省の準備をしていた颯太は台所から顔をのぞかせた。


相変わらず薄着のままで早苗が立っている。


「おはよう。おめでとう。おせちと雑煮は?」


「おかーさんが用意してる。とりあえず、帰る前に挨拶だけしなきゃと思って」


「それはわざわざご丁寧に・・・・今年もよろしく」


「こちらこそ」


「上がって行くだろ?雑煮位食べて行きな」


颯太の言葉に、早苗は首を横に振った。


「おせちあるしっ・・・ちょっと散歩行くつもりだったから」


その恰好で?と思ったけれど、口にするのは躊躇われた。


自分との距離に戸惑っているのは見て取れたので。


本当は、顔を見に来ただけなんだろうと思う。


彼女の言う”ちょっと”と俺の言う”ちょっと”はあまりにも違うから。


こればっかりは、職業柄教えるのが得意だとしても、うまくやれそうにない。


相手の気持ちを測ることというのは、大人になったほうが実はずっと難しいのだ。


「じゃあ、お雑煮できる頃に帰っといで」


そう言って、椅子にかけてあった上着とマフラーを着せこんで、こないだ彼女が忘れて帰ったニット帽をかぶせてやる。


早苗が困ったように、笑った。


どうして良いのか分からないと言った表情。


嘘を吐くのが下手な子だなぁ・・と思う。


自分を騙すために嘘を吐く南と、気付いてほしくて嘘を吐く多恵。


2パターンは攻略済みだけれど・・・迷ったままで嘘を吐く子はこれまで知らなかったから・・・


庭を抜けていく背中を見送って、颯太は時計に目をやった。



30分たって戻ってこなかったら迎えに行くか。





☆★☆★




上着もマフラーも早苗に渡してしまったので、トレーナーのままで足早に海岸に向かう。


と、駅からこっちを凝視しながら歩いてくる人の姿が見えた。


こんな寒そうな格好だからか?と疑問に思う颯太に、その人は微笑みかけた。


「・・・あそこで蹲ってる、我が親友の彼だよね?」


砂浜で丸くなる早苗を指さして問われて、颯太は早苗から聞いていた、ひとり人物の名前が浮かんだ。


短い髪に、細いからだ。中性的な整った顔立ち。


「・・・・基?」


颯太の言葉に、彼女はにこりと微笑んだ。

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