第65話 決意と夢の

賃貸マンションの2年契約の終了時期が近付いている。


ここ最近ようやく住み慣れた部屋を見渡して、あたしはひとつの決意をした。


やっと、2年がかりで、それを決めることができた。





・・・・・・・・・・・





2回目の人生ゲームを終えて、本格的に仕事モードに切り換わりつつある基のそばで、プロット帳にざかざかとストーリーのイメージを書き連ねていくその様子を眺めながら、早苗は此処に来る前にコンビニで買って来たファッション雑誌のページを捲る。


一緒に居る時間が増えるにつれて、基がオンとオフを切り替えるタイミングが何となく分かるようになってきた。


徐々に言葉数が減って来て、問いかけへの返事が遅れ始めたらそのサインだ。


相槌をやめて黙ること数十秒で、基はぼんやりし始めて、手元にプロット帳を引き寄せて開き始める。


今日は大地は出版社との打ち合わせに出かけていた。


相変わらず必要な場面以外は仕事の人間と関わらないようにしているらしい。


”利用”されることへの恐怖心は、簡単に拭えるものではないのだろう。


基が他人を嫌うので、基本的にこの家に来客はやってこない。



「くはー・・・・ちかれたぁー・・・」


大きく伸びをした基の白い頬を指先で軽くつつく。


「休憩する?」


「んー・・・甘いもん」


「特製ケーキあるんだよー」


「え、まじ?さっき焼いてたやつ!?」


「そうそう」


頷けば、食べたい食べたい!と子供みたいな返事が返って来た。


荒熱をとって冷やしておいた、フルーツケーキに生クリームを添えて持って行く。


もったりする程度の7分立て。


これは勿論、マスター譲り。




「やったー!!ケーキ!!!」


フォーク片手に基がはしゃいだ声を上げる。


大きくカットしたケーキを美味しそうに頬張る基の横で、早苗もクリームをぺろりと舐めた。


想像通りの味が広がって嬉しくなる。


「・・・あたしね、お菓子なら結構いろいろレパートリーあるんだ。ちなみに、このケーキも、晴のお墨付き」


「はる、も好きだったの?」


ふた口目のケーキを頬張りながら、世間話のようなノリで基が言った。


あ・・・ほっぺにクリーム。


「うん」


早苗はティッシュを一枚取って基の頬をそっと擦る。


よし、綺麗にとれた。


「はるを、好きだったの?」


聞こえて来た静かな問いかけ。


答えは一秒も迷わなかった。


「うん。好きなの」


基は一瞬目を見開いて、でもすぐにあの人懐こい笑みを浮かべて。


「そっか」


ぜんぶを飲み込んだ。


その一言で。






「晴はね・・・・あたしの幼馴染なんだ。小学校の時、あいつが転校してきてから15歳の冬の終わりまで。ずっと一緒に生きて来たの。すごく・・・・すごーく、大事だった」


基が、フォークを皿に戻して早苗の方に向き直った。


そして、まっすぐこちらを見つめてくる。


「・・・知ってるよ。寝言で、何度も呼んでたから」


無垢で清らかな眼差しは、早苗の心を見透かしているようだった。






ああ、きっとあの夢だ。


あたしの大好きな夢。


何度も、何度も名前を呼んだ。


目がさめるまでずっと。





「喧嘩しても、すぐに仲直りして・・・昔はあたしの方が強かったから晴のおばさんが亡くなった時もあたしが、一緒に泣いてあげたんだ。雪の中、気が遠くなるくらい長い時間。寒さも忘れるくらい、ふたりで大泣きして・・・一緒に大人になって、しわくちゃのおじいちゃんと、おばあちゃんになってそんで・・・一緒に宇宙旅行行こうって。二人で・・・長生きしようって・・・」



あの夜見上げた星空の美しさに感動した。


こんなに綺麗な星ならもっと間近で見てみたいと思った。


いつか、いつか、一緒に。



興奮してまくしたてる早苗を馬鹿にすることなく、真剣に話を聞いて頷いてくれた父親の皺の刻まれた優しい笑顔を思い出す。



壊すんじゃなく、一緒に夢を見ようって言ってくれた。


そんな、優しい大人ばかりだった。



神社の階段、棒付きアイス、チューブゼリー。


特大パフェを食べた喫茶店、街の本屋さん、スケートリンク。


草野球をしたグラウンド、毎日通ってたクラブハウス。


キャッチボールで割ったリナリアの窓。



大丈夫、こんなに息づいてる。


あたしの中でちゃんと。


キラキラした思い出たちは。


いつだってずっと。


少しも歪んだり、濁ったりしていない。



想い出に押しつぶされそうだと思っていたのに、こうやって言葉にすれば、想い出はどんどん鮮やかに蘇る。


それはまるで魔法のように。


晴を知らない人に、晴のことを伝えるのがこんなに楽しいことだなんて。


少しも知らなかったよ。



抱え込んだ想い出を、消さないように。


綺麗な記憶は塗り替えないように。


動かずにいたあの日々。



ううん、違う、本当は動けなかったんだ。


未来に向かう足を、意気地なしの心は、いつも止めてばかりいた。






晴は・・・・・




「・・・高校受験の朝ね・・・試験校に向かう途中で、事故にあってそのまま・・・・・・死んじゃったの・・・」



それは、いなくなってから初めて口にする言葉。


基は早苗をきつく抱きしめた。


「つらかったね・・・」


男でも女でもない、基の生身の声を聞いた気がした。






駆け付けた病室で冷たくなった晴の頬に触れた。


少し硬い感触の髪もすっかり冷たくなっていて、魂を失った人間は本当にただの入れ物になるんだと、初めて思い知らされた。


最後まで握っていたカバン。


あたしの手袋。


傷一つないのは、無意識のうちに晴がカバンを守ろうと抱え込んだからだろうって。




空飛んでる一瞬に、何考えてんの馬鹿。


最後まで、優しい晴だった。


壁に凭れてずるずるしゃがみこんだあたしの横で、嗚咽を上げたのはおっちゃんだった。




・・・なんでだろう・・・・・・・・・・・泣けなかった。





まるで夢の中の出来事みたいで、こんな現実あまりにもできすぎてるんじゃないかって。


ひとりでぼんやり病室を見てた。



今にもこのドアから、本物の晴がひょっこり現れるんじゃないかって。





そしたら、まっさきにぶん殴って、心配させるな馬鹿!って怒鳴って。


晴のことを抱きしめて。


思いきり泣いてやるって。



だから、涙は取っておかなきゃ。





ねえ、なんであんた先に行っちゃったの?


約束も、思い出もそのままで。



泣いたあたしを連れて帰ったあの日から。


あたしを迎えにくるのは、あんたしかいないって決めてたんだから。





なんで置いて行っちゃうの?


ふたりで作る新作メニューも。


お疲れ様パーティーの準備も。



みんな、みんな、そのままで。



あたしの、最初で、最後の言葉も。


何にも、聞かないままで。



「・・お・・置いてかれた・・・置いてかれたの・・・あの馬鹿に・・・っ一緒に・・・一緒って・・・言ったのに・・」




自分の声を聞いて、やっと、いま自分が泣いていることに気づいた。


涙って熱いんだな。


クリアな頭の片隅で不思議とそんなことを思ったりもした。


基は、早苗の背中をぎこちない手つきで何度も何度も撫でた。



「好きって。言えば良かった。思ってたんだから、そんなのずっと。いつだって、言えたのに。・・・・・大好きって、一番大事だって・・・あたしの・・・気持ち・・・」






繋いだ手を、握り返してくれた瞬間に。


ふたりでいつもの指定席で笑い合ったあの一瞬に。


帰り道、手を振って別れる寸前に。





あたしの、ありったけの気持ちを。


何べんでも、晴がびっくりするくらい。


好きって、言葉にすればよかった。



照れくさくて、恥ずかしくて。


最後の前の日、ベランダで叫んだ”頑張れ”にその思いを込めたんだ。





ちょっとは届いてたかな?


ほんの一瞬でも、晴の勇気になれたなら嬉しいよ。






「それで、はるの分も、頑張って生きようとしてたのか?だから、あんなにがむしゃらだったんだな・・」


早苗の数倍華奢な身体をしているくせに、背中を撫でる手はとても大きく感じられた。


そして、形は違うけど、同じ”孤独”を知っている基は、自分たちにしか分からない、心の琴線に触れる穏やかな声で言った。




「頑張んなくていいよ。そのはるって奴の分も、必死んなって生きること無い。お前は、自分の分の幸せを、ちゃんと大事にしろ。自分の幸せさえままならねぇくせに、無茶すんなよ。死んだやつが願うことなんてさ、きっと生きてるやつの幸せだけだよ。それだけだ。自分の分も人生頑張れなんてはるは思ってねぇよ・・・・・・・・お前がいつかさぁ、しわくちゃのおばあちゃんになって、大勢の家族や友達に看取られて、目一杯人生楽しんで宇宙旅行の土産話持って・・・それで、自分に会いに来るのを待ってんだよ。はるに、笑って会いに行けるように、まず、藤野が幸せになれよ」



頑張ろう、頑張ろうね。


みんなはあたしを抱きしめて繰り返した。


落ち込まずに、頑張ろうね。



頑張らなくていいよ。


それは、基が初めてくれた言葉だった。


ひとしきり泣いた後で、ぱんぱんに腫れた両方の瞼をアイスノンで冷やしながら、しまいには一緒に泣きだして、目を真っ赤にした基と並んでベッドで横になった。



お互い何も言わなかった。


心臓の規則正しい鼓動だけが耳にやけに響く。


アイスノンで遮られた視界の片隅で、晴が、笑ったような気がした。





「ずっとひとりだったから・・・・誰かといるなら、孤独じゃないってずーっと思って来たんだ・・・」


泣いたせいでかすれた声で基が小さく呟いた。


「うん・・・」


「誰かといても、寂しいって気持ちは生まれるんだなぁ・・・・」


「でも、誰かがいたほうが、寂しさは薄まって行くよ」


「そうならいいなぁ」


「そうなんだよ」


「・・・うん・・・・」




それから、どちらからでもなく、手を繋いだ。


早苗は、明日の天気の話でもするみたいに、軽い調子でそれを伝えた。


「来月、あの部屋出るね」


束の間の沈黙。


「そっか・・・うん。わかったよ」



言わなくても、次の目的地を彼女は知ってる。

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