第64話 夜と冬の終わりに
最近、基はよく自分の昔話を話すようになった。
大地は驚いたようだけれど、何も言うことなく、ただ黙っていつものように話を聞いている。
早苗が一人暮らしを始めてから唯一覚えたメニュー兼得意料理のチキンピラフを二人に御馳走するために、材料を買い込んで乗り込んだ木曜日。
ずっと眉間に皺を寄せていた原稿がどうやら一段落したらしく、穏やかな午後が訪れていた。
締め切り前の殺伐とした雰囲気から一変、大地は日当たりの良いリビングで買ったばかりのマッサージチェアーに座って優雅に読書中。
電気屋に行って、一番高性能のやつくださいと言って選んだ品物らしく、かなり巨大なそれはお値段を訊くのも躊躇いそうな重厚感を漂わせている。
静かな振動音と、部屋に流しているリラグゼーション音楽。
その一角だけ見ると、まるでエステサロンみたいだ。
酷い時は一日マッサージチェアを基が占領していることもあるらしい。
今日は、大地に譲ってやったのだそうな。
いつもは散らばっているプロット帳も、原稿も、落書きメモもみーんな綺麗に片付いている。
手持ち無沙汰な基がやってきて、何か手伝うと言ったので、トマトサラダを作ってもらうことにした。
少し髪が伸びた今も、やっぱりこのエプロンがよく似合う。
「くし型に切ってね」
「イエッサー」
鼻歌交じりで、包丁を操る手元は正確で、その白い手にトマトの赤がよく映えた。
キーボードを叩く手ばかり見ていたけれど、美少女は何をやっても似合うらしい。
友世を隣に立たせたら、ファッション雑誌の表紙を飾れそうだ。
トン、トン、と綺麗な半円のトマトが器に並べられていく。
「俺さー・・・初めて包丁持ったの16過ぎてからなんだよねー」
「それまでお手伝いとかしたことなかったの?」
「んー・・・お稽古とかはやらされてたけど。家事関係は、全部お手伝いさんまかせだったからさー。まあ、嫁に行っても、まさか志堂の本家で家政婦いないことはないだろうって、高括ってたしな。だから、最初卵割ってって大地に言われたときこーしちゃったんだよ」
右手を握って、開いてを繰り返す。
まさか本当にこんなコントみたいなことする人間がいたなんて。
基がそれまで生きていた世界はどうやらかなり閉鎖的かつ保守的だったようだ。
それなら、こうして外の世界に出た時の驚きや喜びは相当なものだっただろう。
きっと、彼女の目に映った真新しい世界と、初めての刺激が、その手にペンを握らせたのだろう。
一歩踏み出せば、いつだって世界は新しいドアを用意してくれるのだから。
「ぎゅーしてつぶしちゃったと・・・」
「そうそう、力加減全く分かんなくてさあ。隣で見てたあいつが大笑いして。卵はねーこうやって割るんだよーってまるで先生みたいに」
「なるほど・・・じゃあ、料理は新しい発見だらけってことだ」
また基の新しい一面を知ることが出来た。
彼女が残していく足跡は、早苗にとっては何かも新鮮で、何もかも楽しい。
それはまるで真っ新な白地図の歩き方を早苗に教えてくれるかのようで。
目を伏せて照れ臭そうに基が笑った。
「うん。なにもかも、全部、そうだよ。あの家を出てから、見るものぜんぶ面白いもん」
鮮やかなトマトの横に、同じようにゆで卵を並べながら基が続けた。
「志堂の分家で力を持ってるのはうちだけじゃなくってさぁ。そこに、それぞれ年頃の娘ってのがいてさぁ。才色兼備、眉目秀麗な才媛ばっか。あ、もちろん性格はキョーレツな。そのほかにも、有力会社の社長令嬢とかが何人か名乗り上げてたらしいけど・・・そーゆー競争社会しか知らなかったから、無条件で面倒見てくれるなんて嘘だと思った」
そう言った視線の先にいたのは大地で。
いつの間にか眠ってしまったのか、彼の膝の上に開いたままの本が置かれている。
基はすぐに視線をこちらに戻した。
「何年か前に志堂の跡取り息子が、自分で選んだ女としか結婚しないから婚約者選定は不要だって父親に言い切って・・・それで、俺達の親は大慌てよ。子供が駒にならないなら、家を守って行く為に何とか他の方法で本家との結び付きを強くしなきゃならないって、この間まで蝶よ花よと育てて来た娘そっちのけで、屋敷を飛び出してあちこち走り始めた。あれがあったから出て行くきっかけになったんだけどさ。当時、ひとりぼっちになった俺はさー。これまで、なんでも親の言うとおりにしか生きてきてなかったから、何も選べないでいた。真っすぐ歩く予定だった道が、ぷつんと途切れてそこから先が急に見えなくなった。どこに行けばいいのかも、分かんなくなった。そんなとき、半年ぶりに大地が家に来たんだ。あいつの家、浅海家は代々志堂に仕えて来た家で跡取り息子と年の釣り合う娘もいなかったから、面倒ごとに巻き込まれることもなくて、傍観者決め込んでたんだけど・・・・・・ちょうど、今のあいつみたいに、縁側の椅子でぼけーっとしてたら、大地がつかつか歩いて来て、俺の腕を掴んで言ったんだ。こっから出るぞ。って」
そっけない口調とは裏腹に、その表情はとても誇らしげで、それはまるで・・・
そう、昔のあたしみたいだった。
全幅の信頼を寄せることが出来る人間に出会えたことへの喜びと、未来への期待で膨らんで弾んだ、綺麗な、綺麗な、あの日の心。
嬉しくなってくすりと笑って、するする耳に入って来た声の中に混ざっていた不穏な単語におや?と疑問が生まれる。
「出るぞって・・・え、じゃあ家出状態でここにやってきたってこと?」
彼女を連れ出してしまったというのは、そういうことになるのではないか。
早苗の不安げな表情にへらりと笑って基が答えた。
「一応親には話したよ。あ、もちろん、落ち着いてからだけどな。二度と戻らないって、絶縁状叩きつけてきてやったから。まあ、もう関係ないんだけど・・・そこまでは色々大変だったけどさ。大地がいたから、基になれたんだ。あいつがいなかったら・・・藤野にも会えなかったしね・・・・・・だから、感謝してる」
早苗は、クリスマスの夜、眠る前に大地と交わした言葉を思い出していた。
『志堂と縁を切る代わりに、基を貰ったんだ』
あれは、こういうことだったんだ・・・・・・志堂分家の1人娘を連れて行くかわりに・・・・大地は、浅海家と、志堂家と一切の関係を絶ってしまったんだ。
それはどれほどの決意だったんだろう。
この世界をまだ何も知らない無力な彼女を、たった1人でこれから先ずっと守っていく覚悟。
自分の、この先の人生、すべてをかけて。
『・・・笑ってほしかったんだよ』
たぶん、その答えは、もう出ている気がする。
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