第20話 発熱と期待

数年ぶりにひどい風邪を引いた。


こんなに本格的に寝込むのは、小学校低学年以来だった。


母親の体調が芳しくなくなってから、無意識に自分が寝込んで両親に負担をかけるわけにはいかないと気を張っていたのだろう。


実際、父親も晴も、母親が闘病を初めてから空に帰る時まで一度も寝込むことは無かった。


だから、数年分の付けが一気に押し寄せて来た感じだった。


朝起きて、体が動かなかった時はさすがにもう駄目かと思った。


視界はグルグル回って。耳の奥で甲高い電子が鳴り響く。


頭が痛くて、声は出せない。


目を開けるのも億劫で、瞼を閉じたままこの苦しさが一刻でも早く遠ざかることだけを願い続ける。


次に目を開けたら、目の前に早苗が居た。




「な・・・・で・・・」


どうにか掠れた声で問いかけると、早苗が一瞬困り顔になった。


「あーごめん、起こしちゃったね、さっき山尾先生帰ったからね」


この辺りの住民の健康を一手に引き受けている二代目内科医院の山尾先生は、山尾の父親で、往診にも柔軟に対応してくれる頼れるお医者さんだ。


山尾は、祖父と父親の跡を継いでゆくゆくは山尾内科医院の医師になるのだろうと、言われている。


本人もそのつもりらしく、野球部を引退したら本格的に勉強一筋になるとぼやいていた。


親子そろって藤野家の庭先パーティーの常連客だ。


「風邪だってさ。見てるのも痛いくらいぶっとい注射さされてたよ。何か食べれる?山尾っちも心配してくれてるってさー」


額に乗せられていた温くなったタオルを取り替えながら早苗が訊いてきた。


食欲は無い。


じゃなくって。


「早苗・・・ガッコ・・・」


「休んだー。だって今日って午前中偉い先生の講演会と生徒総会だし。インフルエンザじゃなかっただけでも有難いよ」


ラッキーだったね、と他人事のように早苗が笑う。


「・・・お前おばさんに怒られただろ?」


「お母さんには黙ってるし、だから内緒ね」


「は・・・・?」


そんなもの絶対バレるに決まってるのに。


田舎の情報網の速さと正確さは、都会っ子の想像の10倍上を行くのだ。


「あ、ちゃんとおっちゃんには許可取ってるから。学校にも連絡済みだし、だから心配しないであんたは寝てなさい」


珍しく姉貴風を吹かせられて嬉しいのだろう。


早苗が意気揚々と枕元の桶で温くなったタオルを冷やしている。


まあ、実際今更学校行っても仕方ないし・・・


時計を見ると、13時回っていた。


「こないだの秋祭りの残りのゼリー、冷やしといて正解だったね。あたし先見の明があるよね!?」


お盆の上に乗せられたゼリーのキャップを開けて渡してくる。


「とりあえず、コレ食べて薬飲んで」


何とか体を起こすと、朝よりいくらかは楽になっていた。


山尾先生がさしてくれたという注射の威力だろうか?


山尾の遺伝子は間違いなくこの人から来ているなと一目で確信が持てる、温厚で柔らかい印象の山尾先生は、一見するとお医者さんというよりは、古書店の店主のような雰囲気だ。


難しい医学書よりは文学集のほうがしっくりくる。


この町に引っ越してきてから初めて地元の医師のお世話になったが、街暮らしだった頃は長時間待合室で待たされてくたびれて余計熱が上がった苦い記憶しかないので、往診には感謝しかない。


「山尾っちの父さんすげーな・・・なんかちょっと楽になってる」


「山尾内科医院は名医で有名なんだよ!山尾っちのおじいちゃん先生にはうちの父ちゃんとか、ガンちゃんの父ちゃんが子供の頃からお世話になってるらしいし。この町の人間でお世話にならない人はいないんだからね!これで晴れてあんたもここの住民だね」


早苗の口調から察するに、この町の人間は全員山尾内科医院に並々ならぬ信頼を寄せているようだ。


ある意味洗礼のような診察を終えたので、これでこの場所に根を張ることが出来そうである。


「あそ・・・」


味のしないゼリーと薬を飲み込んで、もう一度横になる。


早苗は食器を片付けに行ったり、少し側を離れることはあってもすぐに戻って来て、いつものカフェオレ片手にベッドに凭れてマンガの続きを読み始めた。


なんかあったら呼ぶからいいよ、と言っても早苗は晴のそばを離れようとはしなかった。


そして、そのことが、本当は物凄く有難かった。






・・・・・・・






「さなちゃん?」


ドアを開けて、店に出て行た父親が顔を出した。


いつもよりもずっと小さな声は、晴が眠っていると踏んでのことだろう。


「さっき起きて、薬飲んだ。また寝てる」


同じように小声で早苗が返事する。


晴は、目を覚ましていたけれど、何となく寝た振りをしていた。


「店もちょっと落ち着いたし、そろそろ代わろうか?寝てる人間の側は、退屈だろう?」


話相手のいない空間に一人きりというのは、活発な早苗には苦痛だろうと気を遣ったようだった。


実際に、お互いマンガを読んでいても、飽きたら遠慮なく声をかけてくるのは早苗のほうで、仕方なく読みかけのそれを置いて、彼女に付き合って別の遊びを始めることが多い。


けれど、早苗は素直に応じることはしなかった。


「ううん、いい。ここにいる。このマンガも読みかけだし」


「そうかい?じゃあ、何かあったら遠慮なく声かけてくれよ?お店、もう空いて来たから降りてきても構わないからね」


「うん、分かった」


父親が静かに部屋を出て行って暫くしてから晴は口を開いた。



「学校行きゃよかったのに」


早苗が、ジロリと振り返ってこちらを睨んでくる。


遠慮なしの剣呑な眼差しは、とても病人に向けるそれとは思えない。


何かを言いかけてぐっと飲み込んだ早苗は、視線をマンガに戻して、もう一度ベッドに凭れる。


「晴を1人にしたくなかったの」


小さいけれど、その呟きは確実に晴の耳に届いていた。



それって・・・・こいつどーゆうつもりで言ってんだろ・・・


早苗のことなので、純粋に言葉通りの意味の可能性のほうが大きい。


いつも誰かが家に顔を出す藤野家は、早苗が寝込むと枕元を取り囲んであれやこれやと世話を焼く人間で溢れかえるので、病人を一人にしてはいけないと経験上思っただけかもしれない。



ひとりで喜んでぬか喜びになったら嫌だな、とそれ以上考えるのをやめた。



手紙の一件もあるしな・・・・


ここからじゃ早苗の顔は見えなくて、だから晴は、手を伸ばす。


耳の下で結ばれた髪を引っ張った。


「なにー?」


「タオル温くなった」


「はいはい」


そう言ってこちらを振り向いた早苗の頬はまだほんのり赤くて。


慌てて手を離した晴は少しの期待を胸に秘めて、ゆっくりと目を閉じた。





失くしたくないもの。


大切にしたいもの。


きみが初めて笑った日。


風は優しく、空は晴れて。


波はただ穏やかで。



こんな毎日が。


永遠に続けばいいのにと思った。

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