第22話 イマ~来る・恋・来い~
肌に触れる風や、雨の音。
そんなものまで手に取るように覚えていたのに。
記憶は無常に薄れて霞んでいく。
止められない時間があたしを大人に変えてく。
心だけはずっと。
15歳のあたしに預けたままで。
はる。
ねえ、晴。
あたしはさぁ、あんたが居なくなってから。
一緒にいた頃よりずっと。
ずーっと。
晴を思い出してるよ。
好きな野球の話。
唯一苦手なしいたけのこと。
好きだった歌。
練習のしすぎでマメの潰れた手。
クセのある黒髪。
お気に入りのスニーカー。
回し読みしたマンガ。
どうでもよかったことほど。
大事に、大事に思えてきて。
余計に晴のいない毎日を感じる。
あたしは。
あたしはさぁ。
おばさんのお葬式で、晴を抱きしめた時から。
絶対死ぬまで、他の誰でもないあたしが。
あんたを守ってくんだって。
本気でそう思ってたよ。
そして、それは当たり前のことだって、思ってたよ。
疑いもせずにそう信じて、生きて来たよ。
ほかの未来なんて、知らなかったよ。
・・・・・・・
見えてきたおっちゃんの喫茶店リナリア。
我が家同然に出入りしていたあの場所が、息をするように馴染んでいたあの場所が、一気に遠ざかってしまってから数年。
おっちゃんが心配で毎日のように顔を見せていた時期、苦しくなって離れた時期、程よい距離を探して手探りしていた時期、そしていま。
決めてしまった心が、まだ震えているのは怖いからだ。
この町で一番思い出が沢山詰まったあの場所は、この先もずっと残り続けて、あの頃を輝かしく照らし続ける。
それを見つめて笑える勇気が持てるまでは、懐かしめるほど強くなれるまでは、立ち入ってはいけない場所だと、そう、思ってしまった。
砂浜を踏みしめる足が止まってしまった。
鉛のように重たくなった足元を見下ろして、海辺を照らす太陽を睨みつける。
どうしよう・・・
重たい溜め息をひとつ。
このまま帰ってしまおうかな・・・
気づかない振りして。
見ない振りして。
このままあたしの中だけに。
このままずっと眠らせてしまおうか。
ふと持ち上げた視線の先に、自販機があった。
昔、ふたりでよく買ったホットのコーヒーや紅茶に並んでココアが入っている、いつまでもラインナップが更新されない自販機だ。
ここで飲み物を買って向かう先は大抵がいつもの神社で、部活の無い日や、引退した後は、大抵冬が来るまでそこで過ごした。
お馴染みの宿題の写しあいっこや、部活動の話、時には未来の話もした。
そして、思い出したように、宇宙旅行の約束を確かめた。
あの頃既に晴は、宇宙旅行なんて不可能だと思っていたのかもしれないけれど、面と向かって否定してくることは無かった。
宇宙旅行じゃなくても、良かったのだ。
何十年も先の未来も、こうして二人で話をしている現実を、信じたかった。
ただ、それだけ。
「いつものミルクティー無かったから。今日はココアにしてみた」
晴の言葉が甦る。
あれからココア好きになったんだよなぁ・・・
当たりはずれの激しい自販機だったが、幸いココアは王道の味で、優しい甘さだった。
ココアの缶を傾けるあたしの顔を神妙に眺めて、どう?どう?と尋ねて来た晴に、普通に美味いよ!とそれを手渡した瞬間の、心底ほっとしたような顔が忘れられない。
紅茶派だったのに、ココア派になって。いまじゃ珈琲派だ。
全部、晴がきっかけだ。
うっすい珈琲や、苦い珈琲。
時には酸っぱい珈琲も、色々飲んだ、というか、飲まされた。
ああ、やっぱり駄目だ。
ちゃんと、会いに行かなきゃ。
あたしが自分で。
自分の足であの店のドアを潜って、ちゃんと会いに行かなきゃ。
おっちゃんは・・・マスターはずっとずっと首を長くして待ってる。
すいぶんご無沙汰になったもう一人の子供があのドアを開けて帰ってくるのをきっと待ってくれている。
自販機でココアを買って、再び店に向かって歩き出す。
あったかいココア。
一口飲むと、信じられないほど甘かった。
10代の自分はよくこんなの飲んでたな。
飽きもせず。
寒い日はあれから毎日ふたりで神社の階段に座った。
膝を抱えて丸くなって降ってくる落ち葉を眺めて過ごした。
宿題をしながら、マンガを読みながら。
駄菓子屋でかったスナック菓子片手に。
取り留めの無い話をした。
翌日には何を話したのか忘れてしまうような、ささやかで平和な毎日。
キラキラした日々。
恋、だったんだな。
あんなに幸せだと思えた日は無い。
少しずつ、紅葉みたく。
あたしの心に降り積もっていた。
小さな恋のかけら。
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