第71話 繋ぐ

出会った当初の早苗は、空気みたいな女の子だった。


明るい表情と、明朗活発な性格。


彼女自身によって作られた、そうであるべき外向きの自分。


本当の藤野早苗は、もうずっと前から空っぽで、それでも帰りたい場所があるから、もう一度自分の足で歩き始めようと、手探りを続けている。


時々溺れそうになりながら。


最初は誰かを探しているのかと思った。


そして、その誰かがもういない事に、周りの反応で気づいた。


ああそうか、と納得出来たら、もう他人には思えなくなっていた。


彼女の瞳はまるでガラス玉みたいで、覗き込めば反射して綺麗に他人を弾くから、慎重に、慎重に言葉と距離を選んだ。


手がかかる、という点では物凄く似ている妹の多恵と早苗。


けれど、二人には決定的に違う所がある。


”空っぽになったことがある人間と、そうでない人間”


多恵が知る寂しさと、早苗が知る寂しさは、余りに遠い所にあった。


颯太が両手で抱え込める距離にある多恵の心は守れても、触れるどころか、手を伸ばすことさえ許されない早苗の心は、入り込む隙間すらない。


近づかないで、気づかないで、見つけないで。


あれほどまでに強いメッセージを無言で放つ女の子を、俺は初めて見た。


仕事柄、複雑な家庭環境で育った子供たちと接してきた経験を以てしても、まるで早苗には響かない。


笑顔で拒絶して距離を取る彼女の隣に並んで座れるようになるまで、1年近くの時間を要した。


まるで手負いのケモノ。


誰も寄せ付けない孤独な背中は、近づこうとする者全てを弾いて傷つける。


多恵は、寂しさと不安から他者を拒絶する。


自分を認めてくれない場所から、存在全部を否定されて、居場所を失くしてしまった。


けれど、多恵は、悔しいと泣くことも、寂しいと手を伸ばすことも出来た。


それは彼女にとって大きな光になった。


多恵が育った環境、多恵を取り囲む内輪の人間、その全てが、良いように作用した。


守って貰える場所がある事を、多恵は生まれた時から知っていたのだ。


だから、学校という、子供にとっての世界の中心から弾かれても、多恵の根本は歪むことなく守られた。


心底愛されて、守られた経験を持つ子供は、絶対に大丈夫だ。


これは、教育に携わってきた経験から来る持論でもある。


けれど、早苗は、それを一度失くしてしまった女の子だった。


僅か15歳で。





・・・・・・・・・・・





10分程度の立ち話でなら、早苗が視線を逸らさなくなってしばらく経った頃、地元の海岸でちょっとした珍事件が起こった。


海岸に、ガラス瓶に入った手紙が流れ着いたのだ。


何十年も海辺の漁師町に暮らす地元民の間でも、ちょっとした話題になった。


いつものように、藤野家から、夕飯のお裾分けの詰め合わせ(主に早苗の母親が大量に作った煮物)を受け取って、ついでに早苗と世間話をする。


踏み込んだ話題でなければ、早苗は拒絶を示さない。


当たり障り無い天気の話題や地元のお年寄りの話、早苗のバイト先での話や、颯太の勤務先でもある小学校での話題がほとんどだった。


早苗が自分から話を切り出す事はまだ無かった。


「そういや、聞いた?流れてきた外国の手紙の話」


颯太の言葉に早苗が目を輝かせて頷いた。


彼女にとっても興味深い話題だったらしい。


「うん!日吉のおばちゃんが見せてくれた。凄いよねー、インク滲んでてほとんど読めなかったけど、なんか感動したなぁ」


「どっから流れてきたんだろうな」


「そうだねぇ、ずっと遠くの南の島かなぁ?・・・・それとも、すんごい北の寒い国かなぁ?」


楽しそうに想像を膨らませる早苗が、ふと視線を逸らした。


日が暮れて数時間、夜空には星が煌めいている。


古びた正井家の庭には外灯なんて洒落たものは無いので、明かりは縁側に漏れる居間の明かりのみ。


早苗はふと視線を上げて、真っ暗な宵闇を見つめた。


綺麗に浮かんだ冬の大三角をぼんやりと眺める。


そして、静かに言った。


「誰に宛てた手紙だったんだろうね・・・・・・・好きな相手に送る手紙だったのかなぁ・・・」


彼女と手紙について話をしたのはこれが初めてだった。


早苗が、幼くして最愛の人を失くした事は、この町に住む誰もが知っていて、だから誰も早苗の前で彼の事を口にしない。


二人の間で交わされた約束も、夢見た未来も、全て、早苗の中だけで息づいている。


恋愛に纏わる話を極力避ける早苗が、初めて口にした、ラブレターという言葉。


彼女にとって、手紙から一番に連想されるものが恋文だったのは意外だった。


今の彼女と正反対の場所にある甘ったるい単語が、やけに胸に響いた。


早苗が語ろうとしない彼との楽しい記憶の中に、二人でやり取りした手紙があったのかと思うと、苦いような切ないような感情がこみ上げた。


死してなお、相手を縛り付ける程の深い愛情を、自分はまだ知らない。





早苗が何の答えも求めていない事は、彼女自身の表情からも理解できた。


それでも、言わずにいられなかった。


「手紙はさ、何度でも書けばいいよ。届いても、届かなくても」


颯太が咄嗟に言った一言を受け止めた早苗が、心底驚いたような顔でこちらを振り仰いだ。


ドキッとする位、一切の感情が含まれない無の表情。


こちらの言葉をそのまま受け止めて、そして、即座に早苗は、拒絶した。


「手紙って、相手があるから書くものでしょ?独り言だったら手紙じゃなくて、日記になっちゃうじゃん」


笑って見せた早苗が、心底怒っている事を知りながら、それでも颯太は尚も続けた。


「相手の名前を出さないと、書けない言葉もあるだろ?」


「っ!」


この時初めて、早苗の視線が揺れた。


「自分の気持ちを整理する為に書く手紙だってあるよ。隠したり、押し込めたり、まして忘れたりするもんじゃない。自分の中で、ラベルつけて、記憶していくための、作業だよ。だから、早苗ちゃんが、楽になれるように、何度でも手紙を書いたらいいよ」


「何、言ってんの・・・・・・・あたし、すんごい筆不精だし」


唇を噛み締めて早苗が俯く。


あ、このままだと泣くな、と思った。


普段の自分なら女の子を泣かせるなんてあるまじき行為だ。


自分の担任するクラスの男子にも、女子には優しくするようにと教育している。


けれど、この時颯太は意外なほどホッとしていた。


この子がここで泣けるなら、俺はこの子を救い出せる。


もう一度、深海の底から、月明かりが見える海の上に引っ張り上げてやれると、確信できた。


そのための涙なら、全部まとめて引き受けようと、そう思えた。





「宛名がいるなら、俺に書いてよ」


軽い口調で言って、手を伸ばす。


「っ・・・・だから・・・・書けないってば・・・・」


「書けるまで、どれだけでも待つよ」


この日、初めて早苗の手を握った。


両目に涙をいっぱい浮かべたままで、早苗はゆっくり瞬きをした。


同時に零れた涙が頬を伝って握った颯太の手の甲を濡らした。


悲しみよりも、驚きが強い表情でこちらを見返して、早苗がぽつりと呟いた。


「颯太の手、あったかかったんだね」


「俺の手も、ちょっとは役に立つだろ?」


笑って、早苗の目尻に残った涙を拭う。


片手分の温もりを確かめるように、視線を繋いだままの右手に下して、早苗が小さく、けれどしっかり頷いた。

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