第28話

「ああ、帰って来た。アレじゃないか? ルカって」

 ルカが長屋の角を曲がると、親方が大きく手を振っている。


 親方が話しかけているのは、ひとりの大柄な男だった。薄茶色の髪を短く刈り込み、質素なマントを羽織っている。

「アルフォンス……」

 ルカが目を見開くと、親方は妙にわざとらしく目を細めて笑った。

「やっぱり、このルカだよな?」

 アルフォンスに向かって念を押した後、親方はルカの腕を引いてアルフォンスの前に押し出そうとする。

「ああ、確かにこのルカだ。間違いない」

「昔馴染みなんだってな? わざわざお前のこと探し歩いてたそうだ。会えてよかったな!」

 重い荷物を背負ったまま急に引っ張られたルカは体勢を崩して片足を二度踏み出すことになった。

「ああ、悪い悪い」

「紙取ってきました。先に、中に置いてきます」

「おう」


 ルカが工房に入ると親方も付いてくる。

 紙を乗せた背負子を下ろすや否や、先ほどの笑顔を消した親方に詰め寄られる。


「アイツ、王宮の騎士なんじゃないか?」

 親方は他の仲間に聞こえないよう、低く小さな声で、ルカに顔を近づける。

 疑うのは当然だろう。

 アルフォンスはなるべく地味な服を着て来たつもりだろうが、裏通りでは明らかに浮いている。身なりがよくて、体は大きく逞しい。鋭い眼光、隙のない身ごなし。違法な写本工房の親方が最も警戒する人物だ。


 セルジュが自分を探している可能性はずっと考えていた。セルジュの使いは当然王宮関係者で、ここにたどり着くということは、違法な写本工房の発見と同時になるのだ。

 そんな事態になったらどう振舞うべきか……ルカは準備していた言葉の中からひとつを選ぶ。

「親方、さすがよく見てる……」

「やっぱりか。お前、まさかずっと」

「そ、それは違う!」

 ルカは慌てて否定する。

「アイツがなんでここに来たかは分からないけど、俺が引き入れたとか、そういうんじゃない。昔馴染みなのも本当だし、アイツが騎士の家系なのも本当だけど、もうずっと会ってなかったんだから」


 ルカが小声で早口で捲し立てると、親方は唇を噛んだ。悔しそうな顔だ。ルカは親方の目をしっかり見つめながら、きっと彼が欲しがっているだろう言葉をかけてやる。

「すみません、迷惑かけて。俺、出てくよ」

「え、あ、いや。そこまでしなくても……」

 突然の申し出に親方は言葉を濁したが、以前から決めていたことだ。セルジュに見つかったら工房からは出て行く。

 三年も世話になった工房だ。ようやく自分の後輩もでき、愛着も湧いてきたところだったが、別れとは突然のことだとルカはよく知っていた。


「アイツが騎士なのは本当だから、俺はもうここに来ない方がいいでしょ。念ため、色々用心した方がいいよ」

「そ、そうか。本当なんだな? あいつは摘発じゃないって」

 ルカが頷くと親方は幾分か安心した表情になったが、きっとすぐ工房は移動するだろう。以前にも周辺に摘発が入った時、用心して場所を移していた。

 次に行くなら、通りの反対側の南門の近くか、もっと向こうの第二城壁の真下あたり……違法業者の動きも分かるようになってきた。


「ミラが来ると思うから、伝言をお願い。手紙の代筆できなくなってごめんって」

 ルカは工房の隅に置いた上着だけを持ち、親方に頭を下げる。

「じゃあ、お世話になりました」

 工房の仲間たちが会話についていけず、呆然とふたりのやり取りを見ていた。




 ルカは振り返ることなくドアを出ると、視線だけでアルフォンスを促し、早々に表通りへと足を向けた。

「荷物はないのか?」

「貴重品はいつも持ち歩いてるので」

 ルカはチュニックの腹のあたりに触れる。

 数少ない手荷物はすべて、小さな袋に入れて腹に巻き付けている。少しの銀貨と、大切な銀のペン。


「アルフォンス殿はモント隊に入ったんですね」

「……よく分かったな」

 アルフォンスはわずかに眉を上げた。

 モント隊は王宮騎士の中でも、選ばれた騎士だけが名簿に名を連ねる上級部隊だ。

 粗末なマントを羽織っているアルフォンスは一見すれば王宮勤めには見えない。本人も下町を歩くために目立たないようにしているのだろう。

 しかしルカにはすぐ分かった。

「靴とマントは替えたみたいだけど、シャツとズボンは隊服のままでしょう。襟に紋章の刺繍があるし、ズボンもそんないい布じゃ、この辺りを歩くにはちょっと変ですね」

「刺繍なんか、見えないだろう」

 ルカの指摘にアルフォンスはマントで覆われた襟元に触れる。シャツの襟はほとんど隠れていたが、彼が少しでも動くとチラチラと刺繍の端が覗く。ズボンも同じで、長いマントの裾から少しだけ見えていた。

「そもそも襟に刺繍が入ってる服というのが珍しいですから。変装するなら、手抜きしちゃいけませんよ」


 大通りに出るまでくねくねした狭い路地をいくつも通らなければならない。建物の間から見えるのは狭い空だ。どこかから赤ん坊の泣き声が響いてくる。

「あーあ、仕事がなくなっちゃったんですけどー」

「違法翻訳だろう?」

「その通りなんだけど……」

 ルカは唇を尖らせた後、それを誤魔化すようにもにょもにょと口の周りを動かして、アルフォンスから眼を逸らした。

「だって、俺、本読むくらいしか、出来ないし」

 視線を俯けると、先ほど自分で指摘したアルフォンスのズボンが目に入る。一見すれば生成りだが、均一な薄茶色で染められた平織りはとても丈夫で騎士の隊服に最適だ。

「はあっ……」

 ルカが自覚するより先に気の抜けた溜息が落ちる。

 アルフォンスがなんのために自分を探していたのか。彼の口から何を訊かされるのか。


「で、俺はどこに連れて行かれるんですか? 誰の命令?」

 分かっていても、アルフォンス相手だとくだらない憎まれ口を叩きたくなる。

「あれかな。古文書の知識を流出させたくない共同王と後見殿が、学院からひとり逃げ出した俺をなんかの罪状で引っ張ってこいと言ったとか。で、それを知ったセルジュ様が先回りして、アルフォンス殿を寄こしてくれたのかも。けど、実はアルフォンス殿は共同王の命令で動いていて、結局俺は御前に突き出される……なんて?」


 もちろん冗談だ。事情なんか分からない。しかしアルフォンスは一瞬、ひどく驚いた顔をした。どの部分に驚いたのかは分からない。


「セルジュ様はずっとお前を探していた」

 セルジュのことでなければアルフォンスがこうしてひとりでルカに会いに来るはずはない。

 写本工房の摘発でもなく、違法翻訳でルカ本人を捕らえるためでもなければ、残された彼の行動理由はセルジュだけだ。

 この三年、セルジュはきっと自分を探しただろう。便りを送ると言ったのに一通も寄越さなかった薄情なルカのことを。彼はきっと心配してくれただろう。


 だからこそ、合わせる顔がないのだ。


「……うん」

 ルカはうつむいたまま頷く。

「最初はお前の村に何度も使者を送った。しかし、どこへ消えたのかは不明のまま」

「誰にも、何も言わなかったから」

 ルカが下を向いたまま気まずい声を出すと、アルフォンスは大きな溜息を吐いた。呆れた音がする。

「トマシュも何も知らなかった。アイツも怒っていたぞ」

「……うん」


 誰にも会いたくなかった。

 選択を誤った自分を知られたくなくて、何者にもなれず落ちぶれた姿を見られたくなかった。いっそ遠くの街へ逃げてしまおうと何度思ったことか。


「会わなきゃ、ダメかなあ」

 ルカが探るように視線だけ上げてアルフォンスを見ると、以前より剣呑さの増した鋭い眼で睨まれる。

「セルジュ様に会いたくないと?」

「だって……! 合わせる顔、ない……」


 ルカは再び視線を落とす。汚れた靴を履いた自分の足が目に入る。

 粗末な服。何も持たない両手。逃げ続けた、卑怯な薄情者。


「王太子殿下の命だ。貴様に断る権利などない」

「王太子に、なったんですか?」

 立太子したなど聞いていない。オーレリアンは相変わらず後継指名をせず、王太子の座は空席のままだ。ルカが思わず顔を上げると、アルフォンスはほんのわずかだが言い淀んだ。

「おなりになる。いずれ、近く、必ず」


 大通りに出ると少しだけ視界が開ける。

 毎週市が立つ王都最大の目貫通りは大きくカーブして、その先は下り坂になる。城壁の中の街はどこも道が曲がりくねり、行き止まりも多く、まるで迷路のようになっている。

「俺が言うのもなんですけど……古文書の不法所持、無許可の複製、翻訳、販売……あの工房、本当に取り締まらなくていいんですか?」

「俺の仕事ではない。それに、取り締まっても取り締まっても湧いてくる。はっきり言って、やるだけ無駄だと思っている」

「……求めてるんですよ、みんな」


 ルカは通りの左手側を見上げた。

 王宮への道を知らないはずもない。この先に、セルジュがいるのだ……城壁に囲まれた王都の中でも、広大な土地を有するシュアーディ王宮の塔の屋根がいくつも並んでいる。


「言葉を。知識を。今までに見たことも聞いたこともない、何かを。止められるものじゃない。締め付けて、脅して、取り上げようとするほど、古文書の価値は高くなる。価値が高まれば、貴族たちはそれを手に入れようとする。そういう人間の馬鹿みたいな気持ちはね、国王にだって止められないんです」


















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