第30話

 最初に文字を習ったのは、三つか四つの頃だった。

 同じ年頃の子供たちと一緒に、村でひとりだけの老僧から教えてもらった。


 最初はほこらの前の小さな屋根の下で、地面に枝で線を引いた。次に、順番に使わせてもらった習字版で。

 せめて自分の名前は書けるように。

 街で看板の字が読めるように。

 簡単な書類なら読めるように、と。


 物覚えのいいルカは自分の名前どころか、僧が持っている書物をどんどん読めるようになった。

 もっと読みたい、新しい本が欲しいと言って両親を困らせていたあたりからは記憶がある。


 本を読んで文字を書くばかりの人生の中でも、今ほど本を読んでいることはなかった。






「よおし、まずは一棚制覇」

 ルカは梯子から降りると、天井まで届く本棚を見上げる。

 王宮内にある図書館は巨大だ。

 五十年ほど前から国内でも古文書が次々に発見され、王宮の蔵書も膨大となったため、すべての書物を収めるためにと前国王の代に新たに建てられたものだ。


 セルジュの客人として西の宮に滞在するルカは、暇を持て余していた。


 暇に明かして図書館の本を端から読んでいたら、十日間で天井まで届く本棚一本分を読破することができた。図書館にはあと何百も棚があるのだから、読み終えるのは何年も先になる。

 目の前に本がたくさんある。その事実だけでルカは満たされた気持ちになった。


 早速、隣の棚の本にも手を伸ばす。

「あ、これ知ってる」

 ルカが写本工房で翻訳したものの原本だ。

 王宮でなら古文書も読めるのだ。

「ちゃんと王宮に収められてるんだな」

 独り言を聞く人はいない。

 司書も奥で仕事をしているようで、本棚の間にいるのはルカだけだ。


 図書館はいつも人が少ない。

 王族や顧問たちは、必要な本を取って来させることはしても、ルカのように入り浸って読書はしないらしい。

「せっかくこんなに本があるのに、もったいない」

 街には公共の図書館もあるが、蔵書はこんなに多くはない。

 古文書と写本、翻訳本がすべて回収されてから、司書たちは空いてしまった棚に入れる本を探すのに苦労していた。

 ルカは城下での三年間、頻繁に公共図書館に通ったが、空いた棚が完全に埋まることはなかった。


 暇なルカと違ってセルジュは毎日忙しそうだ。

 バザクルから帰国し、いよいよ王位継承者として政治に参加しているのだ。当然アクィテーヌはそれを阻止したいが、慣例に従えば完全に締め出すわけにもいかないらしい。


 ルカもいつの日かセルジュの役に立つため、こうして知識を増やしている。

 行儀見習いも、文官としての仕事を習うのもまだまだ先のこと。いきなり公職に就けるほどルカは身分がないし、セルジュにも権限がなかった。

 毎日図書館で本を読み、飽きたら西の宮の広大な庭を散歩する。

 朝食、図書館、昼食、お茶の時間、散歩……優雅な暮らしだ。


 不思議と街に戻りたいとも、故郷の村に帰りたいとも思わない。


「薄情……だよなあ」

 ルカは読みかけの本から顔を上げて、しばし図書館の棚の木目を眺める。

 ひたすら本の世界に没頭し、会う人間はセルジュとアルフォンス、少しの使用人だけ。

 王宮が自分の居場所だなどとは思えないが、セルジュの隣が、ルカの居場所だ。三年ぶりの再会で実感した。他のところへは行きたくない。彼のそばにいたい。

 そのために、今は本を読むことしかできない……。








 正午の鐘を聴いたルカは、読みかけの本を棚に戻して図書館を飛び出した。

 新しく手をつけた棚の一段目は読破したので、まずまずの戦果だ。


 忙しいセルジュも、昼食には西の宮に戻ってくる。今日はそのままゆっくりお茶の時間も取れる予定だ。

 話したいことがたくさんあるのだと、朝慌ただしく挨拶だけ交わしたセルジュが言った。

 ルカもセルジュに話したいことがいくらでもある。今までに街で見聞きしたことも、きっと国政に活かせるだろう。

 セルジュが顧問会議で活躍するのを手助けし、立太子させ、今度こそこの世界を良い方向に変えていける。


 ――今度こそ世界を変えられる、かな。


 独白に力が籠らないことに、気付かないふりをする。


 図書館は王宮の中央の裏手にあった。そこから赤煉瓦で紋様を描いた美しい小道を抜け、道幅の広くなる坂道を上る。

 王都はどこも坂道やウネウネした小道ばかりだが、それは王宮の敷地内でもあまり変わりない。坂道を上り切ると、いくつもの中庭が繋がる列柱回廊から、西の宮の敷地に入る。建物にたどり着くには庭を三つ通らなければならない。

 広く複雑だが、道はとっくに覚えた。

 

 一つ目の庭は季節の花が見事に咲き誇り、二つ目の庭は噴水が作られ、ここでよく午後のお茶を飲む。

 彫像とオベリクスと果樹が林立する三つ目の庭で、ルカは足を止めた。

 何者かの荒々しい怒声が響いてきたからだ。


「ああっ、くそッ、忌々しいフォンフロワドめ、どこまでもワシらを馬鹿にしおる!」

「叔父上、声が高うございます」


 ルカは足音を立てないよう注意しながら、三つ目の中庭に立ち入った。ここを通らなければ西の宮の部屋には戻れない。

 それに、この声の主たちは……

 一際大きな彫像――山の神の御使を表す、顔は人間、胸は雌牛、下半身は牡鹿の姿――の影に隠れるようにして、ふたりの男が立っている。


 共同王オーレリアン・ド・セプティマールと、その叔父のバチスト・ド・アクィテーヌだった。
















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