第29話
王宮の内部に入るのなど、当然ルカは初めてのことだ。
謁見用の部屋を使うのかと思っていたが、アルフォンスはどんどん奥へと進んでいく。
門を三つ抜けて、正面にあるのが中央の宮。そこから左右に建物がいくつも連なり、右側が女性王族の暮らす東の宮。左側の西の宮は男性王族の住まいになっている。
アルフォンスに続いて、西の宮の三階へと上がった。
ルカは必死に考えを巡らせていた。
この後に及んでまだセルジュへの言い訳を考えている。
王子と会うには汚すぎると入浴させられ、適当な服を着せられながらも考えたが、何も思いつかないまま扉の前に立っていた。
「殿下の客人だ」
アルフォンスが扉に近付くと、廊下に立つ警備兵が槍先を下げて道を開ける。
ルカは呼吸すら忘れて扉の豪華な装飾を見つめた。
まだ何も考え付いていない。
待ってくれと言おうとしたが、それより早く扉が開かれてしまう。着せられた立派なサーコートの襟を掴んだ。
アルフォンスの背中にくっつくようにして入った室内で、まず目に入ったのはふたりの男性使用人で、地味な色の組み合わせのミ・パルティを纏っている。
その奥に質素なチュニック姿の年嵩の女性がいて、揃ってルカに向かって頭を下げた。
「殿下は奥に」
「ああ」
女性の短い言葉にアルフォンスがこれまた短く答えると、三人の使用人はさっと部屋の外に出て、扉が閉められてしまう。
王子の部屋はまず、テーブルと椅子が置かれた応接間があり、さらにその向こうにも扉があった。部屋がいくつか繋がっているのだ。
アルフォンスが奥の扉を開けると、サッと空気が動いた。
バルコニーに繋がる大きな窓が開いている。
南向きの日当たりのいい部屋で、秋の小麦色の陽光を背負って、セルジュが立っていた。
体が一回り大きくなり、どっしりと貫禄がついたように見える。
長い金髪に空色の瞳、雪の肌。
三年前の記憶と同じで、少しだけ違うセルジュが、目の前にいる。
「えっと、違うんです」
第一声からもう言い訳めいてしまった。ルカはもつれそうになる舌を必死に動かす。
「俺、間違えて、しまって」
視線が泳ぐ。セルジュの方に顔を向けられない。
背後でドアが閉まる音がして肩が跳ねた。アルフォンスもいなくなり、広い部屋にセルジュとふたりきりだ。
「座らないか」
身を固くして俯くルカの手を引いて、セルジュは壁際のソファへ導く。
バルコニーのすぐ横で、ふたりの座った場所まで風が届いた。
「ルカ」
セルジュに名を呼ばれるだけで、ルカが必死に考えていた言い訳など全て飛んだ。
嘘は、吐けなかった。
セルジュを前にして、どんな虚言も口に上らず、虚栄は鳴りを潜めてしまった。
「……ごめんなさい」
口をついて出てきた言葉は、ずっと伝えたかった言葉。
「ずいぶんと探した」
「……ごめんなさい」
声に涙が混じってしまう。
セルジュの空色の瞳をよく見たいのに、視界が波打つように歪んで見えない。
「謝るのは私の方だ。力になれず、すまなかった」
最後に会った時より、一回り大きくなった体躯。長くなった金髪。セルジュの髪だ。今にもシャラシャラと音が鳴りそうな、美しい黄金の絹糸。
互いに謝罪し、それを許し、短い言葉を交わしながら、じっとソファに並んでいた。
バルコニーから差す日差しが弱くなってくる頃、ようやくルカは頬を拭う事が出来た。
「君が無事で、よかった。本当に、それだけで」
セルジュはもう何度も口にした言葉を繰り返す。
すっかり日が暮れていた。
アルフォンスが扉越しに二人に声をかけ、連れて来られたのは第二王子専用の食堂だった。
食堂と言ってもテーブルがずらりと並んでいるわけではなく、窓辺に小さなテーブルがひとつきり、部屋に比べて小さく見えるだけで、ゆったりと六人は席につける大きさだが。
そこにふたりは椅子を並べて座り、食事が届くのを待っていた。
「セルジュ様こそ。バザクルに行ったと聞いて、急だったので驚きました」
「ああ、本当は第三王子のロランが行くはずだったのだが、病気で急遽私が代役になった」
「そうだったんですね……」
市民には王子の病気は知らされていなかった。
「第三王子のお加減は? 回復されたんですか?」
「肺を病んだからか、体力はかなり落ちたそうだ。いずれ良くなると信じたいが……こればかりは」
離れていた間の話は尽きない。ルカはセルジュの生活を目にするのは初めてだし、セルジュもルカの三年間は思いもよらないものだった。
ルカ以外の同期生たちは、ほとんどが文官として採用された。しかし元から家柄が良い一部の者を除き、まともな仕事は与えられず、自宅待機か雑用を命じられるばかりだという。
「私と交友があるというだけで、顧問会議や国政の表舞台から遠ざけられてしまった。本当に申し訳ない。私が力及ばないばかりに」
セルジュは細く長い息を吐く。
彼の胸の内にはなにか重い塊があるように思えた。
かつてと変わらず、なおいっそう優雅に冷静に振る舞っているが、空色の瞳は時折ひどく遠くを……空虚を見つめて呆然としていることがある。
「いずれ必ず彼らに報いたい」
「トマシュがどうしているか、御存じですか?」
トマシュの家は代々医師で、第一城壁の中で医院を営んでいる。サン・ド・ナゼル聖堂の近くで、何かあれば僧も手伝いに駆けつけていた。
きっと医師見習いとして働いているはずだ。王宮医師団で学びたいと言っていたが、今の状況だとそれは難しいかもしれないが。
「彼も文官として採用された」
「え! 医師にならなかったんですか?」
「……すまない、拒否は出来なかった。他にも家業を継ぐ予定だったのに、無理やり王宮勤めにされてしまった者がいる」
「なんでそんなことを」
「私に好意的な優秀な人物をことごとく押さえつけようとしているのだ、共同王は。それをして一体なんになると……我が国の損失だ」
食事を運んで来たのはアルフォンスだった。
ルカは思わずまじまじとその姿を見つめてしまう。
「騎士って、こういう仕事もするんですか?」
「行儀見習いで一通りの作法は習得します。王宮騎士として必要なことですので」
「ちょっと、なんで急に敬語? やめてくださいよ」
「ルカ様はセルジュ様の客人ですので」
「よせ、アルフォンス。ルカはそのようなことを望んでいない」
アルフォンスに給仕された豪華な食事を前に、ルカは戸惑った。今朝までは第二城壁近くの路地裏で違法翻訳をして食いつないでいたのに。金品を巻き上げられて無一文になって、同僚に食事を恵んでもらうことすらあったのに。
たった半日で激変してしまった。
本当に現実なのだろうか。セルジュと会いたいという願望で、夢でも見ているような気になってくる。
「痩せたな」
食卓を見つめてじっと動かないルカに、セルジュが手を伸ばし、頬骨のあたりを指先で撫でる。
「すみません、作法はからっきしで」
「気にしなくていい。楽にしてくれ」
ルカは慌ててスプーンを手に取った。
まずはスープだ。実際の晩餐の席は経験がないが、文献でなら読んだことがある。
「しかし、そうだな。どこかに行儀見習いに出すか……アルフォンス、空いている貴族を探しておいてくれ」
「はっ」
ルカがおそるおそるスープの一口目を飲み下したところで、また手が止まってしまう。
「俺が、貴族の家で行儀見習いを?」
「ゆくゆくは。君を文官として登用したいし、いずれ客人ではなく王宮に上がるなら、一度どこかできちんと学んだ方がいいだろう」
「でも、学院は卒業できませんでしたし」
「些末なことだ。君の才を埋もれさせておくのは、あまりにも惜しい。ここで暮らし、生活に慣れたら仕事を与えたいと考えているんだ」
「それは、ありがたいけど」
ルカはスプーンを握りしめたままセルジュとアルフォンスの顔を交互に見比べた。
どうやらふたりの間ではルカが文官になり、王宮に上がることが決まっているようだ。
ルカの口からは自然と肯定の言葉が出ていた。
「セルジュ様にお任せします。今度こそ、きちんとお役に立ちますから」
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