プロローグ 賢者と、頭の大きな男の子 2
「ていこくの王様がいなくなって、キンコウとヘイオンがなくなって困ってたら、始まりの神が助けてくれたってことですか……先生も、そうならそうって、言ってくれればよかったのに」
「はは……」
説明する間も無く納得してしまった男の子の横で、賢者は内心冷や汗をかいていた。
山の村の子らしい泥だらけの手足に、まだ喉仏の気配もない細い首、丸くて大きな頭、舌ったらずな喋り方。
目の前の子供の容姿と、話している内容があまりにもチグハグで、目から入ってくる情報と耳から入ってくる情報の食い違いに、クラクラと目眩を起こしそうだ。
その可愛らしい丸い頭の中には、賢者と呼ばれた男が瞠目するほどの論理的な思考が詰まっていた。
「神殿の教師に古代史まで教えろというのは、酷だな」
「これには、なんて書いてあるんですか?」
男の子が地面に積まれた石板を指さした時、背後から声がかけられた。
「賢者様」
振り向くと、若い女性学者が不思議そうにこちらを見ている。
邪魔な上着など早々に脱ぎ捨て、チュニックの袖から細長い腕が剥き出しになっているが、発掘に男も女もないのはこの場にいる誰もが分かっていることだ。
「その子は?」
「古文書に興味を持ったようで、少し話をしていたのだ」
「近くの村の子でしょうか……親を探して参ります」
「そうしてくれ」
女性学者は賢者に向かって深く一礼したあと、目を細めて男の子に会釈をする。
学者は総じて、子供が自分の研究に興味を持つことを喜ぶ。次世代候補は多ければ多いほど良い。
この世界は広く、研究し尽くす日などそう簡単には訪れないのだから、人手はあればあるだけ有難いのだ。
そしてやはり、子供に嫌われるより、好かれたい。
「そういえば、名前を聞いていなかった」
「ルカ」
男の子はぶっきらぼうに、ただ名だけを口にした。どうやら話が中断したことがお気に召さない様子だ。
「ルカ。東方の賢者の名だ」
賢者がその丸い頭を撫でてやると、むずがるように首を振った。子供扱いも気に入らないようだ。
東方の賢者――言い伝えによると、諸国を周遊し、数々の書物を記したルカという人物は、医師であり、画家であり、天文学者であり、教師であったという。
その人物が生きた時代は、古代帝国が健在であった頃なのか、滅亡の後のことなのか、これもまだ詳しくは分かっていない。
多くの古文書が発見され、研究が進めばいずれ明らかになるだろう。
「小さな賢者・ルカよ。君ともっと話がしたいのだが、付き合ってくれまいか?」
「はなし?」
学問的な交換がしたいと申し出たつもりだが、まだ八歳の賢者にはすぐには通じなかった。
「ああ、話したいのだ。付き合ってもらう代わりに、古文書の文字を教えよう」
「え……でも」
ルカは困ったような、迷うような素振りを見せた。好奇心旺盛な少年はすぐにも飛びついてくるかと思われたが、意外にもあまり嬉しくなさそうだ。
「ふつうの字じゃないんでしょう? 読めても、この石以外に、この字が書いてある本、ないし」
なんと、実用的な学問ではないのではと、渋っていたのだ。
賢者は込み上げてくる笑いと、震えと、言葉に表し難い感動を何度も飲み込む。
この才を引き上げることは、賢者とまで呼ばれた自分がなすべき使命の一つだと直感した。
「古代帝国文字を読めるようになると……世界を変えることができる」
「世界を?」
ルカの瞳がじっと賢者を見つめ返す。
まるで言葉の真意を見抜こうとするかのように。それはきっと大人の邪推だ。
彼は知りたいのだ。
世界とは何か。世界を変えるものとは何か。
それが、面白いものか、役に立つものか、自分にとって利になるか、不利になるか、好きになれるか、夢中になれるか……まだ細かく言葉にする前の、感覚を見つめている。
「左様。どうすれば人々が幸福になれるか、古文書にはそのための材料が書かれているのだ。例えば、頑丈な橋や建物の造り方。例えば、作物の育て方。例えば、病を治す医術」
「へえ……」
ルカは足元の石板をまじまじと見つめる。
「それって、いいことですね」
賢者は、心の中の自分が胸を撫で下ろすのを見た。
知恵ある者が善良であるとは限らない。悪環境で育てば悪に染まり、知識を与えられずに育てばどんな才能も眠り続ける。
この子は、まっさらだ。これからどこに向かって歩くかで、何もかもが決まる。
「なんでも聞くと良い。神殿の教師よりは、少しだけものを知っている」
「カモを増やすにはどうしたらいいか、分かりますか?」
「……カモ? 鳥の、鴨か?」
賢者が問い返すと、ルカはうん、と力強くうなずく。
「そう。鳥のカモ。オレ、大好きで。毎日食べられるように、カモをいっぱいにできますか?」
鴨肉は、豚肉についで食卓にのぼる肉の代表格だ。おそらくルカの住む村でも鴨を飼っており、卵を産み終えたものを捌いて食べているのだ。しかし、毎日は食べられない。
飼育する鴨の数を増やすには、様々な方法と課題がある。それはすでに地上の人間が知っている知識もあれば、まだ知らない新たな発見もあるだろう。
「では、一緒に古文書を読み解いて、鴨を増やす手立てを考えるというのは、どうだろうか」
ルカはこの提案に目を輝かせ、賢者が差し出した手を取った。
いたいけな子供の願いにこそ、進むべき道の地図を探す示唆が隠されている。
間も無くルカの親が現れ、賢者から聞かされる話に驚くだろう。
きっと父親は村の生業である採石の仕事をしていて、母親は子供たちと家を守っている。鴨の世話をしているのは女たちだ。
そんな彼らに、この子は才があるから王都に出してやれと言うのだ。
採石の仕事も、鴨の世話もさせず、普段はさして役に立たない古い文字の読み方を教えるべきだと、そう説かなければならない。
もしかしたらすでに子の非凡さに気づいているかもしれない。神殿の教師から、あの子は頭がいい、勉強させたほうがいいと言われているかもしれない。
「カモが増えたら、食べさせてあげますよ」
この子はまだ、知らない。
山の麓では、鶏という、鴨に似た飛ばないを鳥を飼育していることを。別の山の中では、多くの豚を飼育していることを。王都の賢者の屋敷の庭で、鴨も鶏も孔雀も飼っていることを。
隣の国では牛より羊の方が数が多いと知る頃、何を望むだろうか。
村の鴨を増やしたあと、次に何をしたいと願うだろうか。
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