第27話
その日もルカは紙を背負っていた。職場で使われていた古い背負子を自分で直して、たくさんの紙を乗せても負荷が少ないようにしてある。
「あ、ルカ! ちょうど良かった。会いに行こうと思ってたんだ」
狭い道で肩を叩かれる。
ミラという名の、近所の娼館で働く若い娼婦だ。食堂で頻繁に顔を合わせていたことがきっかけで、いつの間にかよく話すようになった。
「何してんの?」
「見れば分かるだろ。紙、運んでるんだよ」
「重そう」
「重い。紙ってすっごく重いから」
ルカは本と同じくらい紙が好きだ。
文字を書いて、読むことができる。何年もその状態で置いておけて、上手くいけば何百年、何千年も残って、知識を受け継ぐことができる。古文書のように。
「石とどっちが重い?」
「さすがに石よりは軽いかな。でも、石の中にも軽いのとすごく重いのがあるし、紙も束ね方とかで重さが変わるから」
「え、重さって、変わるの?」
「密度が変われば。えーと、なんて説明したらいいかな」
「あ、いいよ。聞いてもよく分からないから」
ミラは本気で興味なさそうに手を振ってルカの言葉を遮った。
「ねえ手紙書くの、手伝ってよ。お客さんがまた送ってくれたんだ」
文字が書ける者は、こうしてたまに代筆の仕事を依頼される。ルカは今までにも何度かミラの手紙を書いてやっていた。
「お代、いくらだっけ?」
「3ドニエ」
「やす!」
ミラは大袈裟に仰け反って笑った。
「ルカだけだよ、こんな安く代筆してくれるの。書生に頼むと、1スーとか取られることもあるんだって。特に字の綺麗な書生さんだと」
「俺は書生じゃないから」
1ドニエは銀貨一枚。銀貨十二枚で1スー、金貨一枚分に相当するが、市井に金貨など出回らないので、ルカもミラも金貨を見たことはない。
ちなみに大人が普通に食べる一日分のパンが、およそ1ドニエで買える。1スーとなれば、二週間分の食費に相当するのだから、確かに高額だ。
「助かるわ。手紙のやりとりができると、人気が出るんだよね。金払いのいいお客がついてくれるの」
「そう。高く売りなよ。安売りしたら、せっかく手紙書いてやる意味がない」
「もちろん」
ミラも城壁の外の出身だ。
二年前、共同王が敵対勢力である地方の伯領を制圧した時、家や農地に被害を受けた住民が王都に流れてきたのだ。第二城壁のこのあたりに住むのは、ルカもミラも、みんな同じような境遇だった。
「最近ほんと景気悪くて。お客もさ、流れ者の変なやつ、また増えてるんだよね」
この三年で、街はまた一段と暗くなったように感じる。
人は増え続けているが、路地のあちこちで飢えた家族が身を寄せ合って蹲っている。下層の市民だけでなく、王宮の過剰な圧力に反発する貴族も閉塞感に苦しんでいるのだ。
世界は、変わっていない。
「ミラのとこは割と大きな店だろ。どこかの貴族が付いてるんじゃないか?」
「うん、そうみたい。よく分かんないけど。だから、うちはマシなんだと思うよ。揉め事とか、少ない方なんだって、他所よりはね」
ルカは紙を背負い直しながら、ふと疑問に思ったことをミラに聞いた。
「娼館には女ばっかりなんだよな? 男はあんまりいないって」
「うん。男を売ってるとこも、なくはないけどね、少ないよ。なに、働きたいの? オススメしないよ。男で稼ぐの、大変らしいから。ま、女も楽ってわけじゃないけど」
「そうじゃなくて……国の施設はどこも男女同数ってうるさいくせに、娼館は人数制限しないんだなって思って」
娼館は王宮の許可した地域でしかできないことになっている。違法売春は重罪で、最近は摘発が厳しいのだ。
なんでも摘発だ。生きるための商売もすべて。王宮の、アクィテーヌのご機嫌次第で取り締まりの対象になってしまう。
彼らは一体、どんな世界を作ろうとしているのだろう。
「そうだね。男は女の体を買いたがるけど、女はお金持ちでもあんまり男の体を買わないんだよ。男娼より役者や詩人を買いたがる。だから男娼は少ないんだって」
「ふうん。俺はどっちもいらないや、娼婦も役者も」
「それが普通じゃない? アタシだって金があっても男なんか買わないよ、もったいない」
「じゃあ金があったら、何に使うんだ?」
「金があったら、焼き鳥をお腹いっぱい食べるんだ。ほら、表の屋台の、人気のキジバト」
ミラの無邪気な笑顔に、ルカも思わず口元が綻んだ。
「ああ、あれ美味しいよな」
大金持ちになったら、自分なら何をするだろう。
好きに使える金がいくらでもあるのなら、古文書を買い集めて、図書館を作ってみたい。誰にでも読ませてやるのだ。そこに学校も併設しよう。あの頃の……セルジュたちと一緒に学院で法典を作っていたころの、楽しい学校を。
「お金があればなんでもできるよねー」
ミラはそんなことを言いながら、娼館の方へと去っていった。
ルカは、背負った紙が何倍も重くなったように感じられた。
自分はお金はなくとも、勉強する機会を与えられていたのに。判断を誤り、機会を投げ出してしまった。
――違う!
ルカは口の中で叫んだ。噛み締めた歯の付け根に痛みが走る。
あのまま試験を通過して、文官になってオーレリアンやバチストに仕えるなど、出来るはずはなかった。
自分がどうしたいのかが分からないのだ。
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