第26話
長らくバザクルに留学していた第二王子が、三年ぶりに帰国するという報は、大々的な布告ではなく、市民たちの風の噂という形で広まっていった。
静かに、しかし、確実に。
ルカが王都の街を歩いていても、人々の会話には頻繁に彼の名前が登場する。
「セルジュ王子の入市式やらないって本当?」
若い女性が数人、第二城壁の通りで立ち話をしている。ルカは大きな荷物を背負ってゆっくり歩きながらそれを聞いていた。
「え~、じゃあパレードは? 第二王子様見れないの?」
「タピストリー作るの楽しみにしてたのに」
女性たちは不満そうだ。
王族が都市を行き来する時、入市式と呼ばれる盛大な催しが行われる。王族は立派な馬車や飾り立てた馬に乗り、たくさんの供を引き連れて行列をなし、迎え入れる都市の方も市民が集まって、その日のために作ったタピストリーを掲げて到着を祝うのだ。
しかしバザクルから三年ぶりに帰郷するセルジュは、何故か入市式を行わないらしい。これも布告はなく、人々の噂で広まっているだけなのだが。
――本当に帰ってくるのかな?
女性たちの横を通り過ぎたルカは荷物を背負い直す。
木製の背負子に積んでいるのは紙だ。ルカの勤める職場では大量の紙を使う。年が若く、まだ下っ端のルカはよくこうして紙の買い付けに行かされるのだ。
ルカは十九歳になっていた。十九歳にもなると、もう坊やとは呼ばれなくなり、声をかけられるなら「そこの兄さん」だ。
セルジュと離れ、村を飛び出して三年。あの時逃げ込み、さまよった第二城壁の中で、今も暮らしている。
季節は秋へと近づいていた。通りの商店が店先に花を飾っている。そろそろ冬物の上着を手入れしておかなければならない。
ルカはそんなことを考えながら、職場のドアを開けた。
職場は、写本工房だ。
「帰ったか、ルカ」
成人男性にしては甲高い声の主は、この工房の親方だ。まだ三十台半ばだが、わざと年寄り臭い立ち居振る舞いをしようとする。
工房は裏通りの長屋の一角。安宿と安い食堂、その先には坂場が増えて、さらに奥には娼館が集まる通りがある。治安が悪い通りと肩をぶつけるような距離だ。
職を探して彷徨った末にここに行きついた。それから三年間、ルカはこの工房の書写として働いている。
「喜べ、お前の後輩ができたぞ」
親方は痩せた中年男をルカの前に押し出した。
「貴族のお屋敷で司書をしてたらしい。“古い本”も分かるからな、雇ってやることにした」
親方の言う“古い本”とは、古文書のことだ。
ここは違法な写本工房だ。
古文書を売り買いすることも、写本を作ることも今や禁じられているが、こうして裏通りでは写本や翻訳本が生み出され続けている。
「“古い本”のことならルカに聞きな。“古いの”の“書き写し”はこいつに頼りきりなんだ」
「あの、よろしくお願いします」
男が浅く頭を下げたので、ルカも顎を引くようにしてそれに返す。
「新入りの仕事はいろいろあるが……お前、あんまり力はなさそうだなあ」
親方は男の身体をじろじろと見て、大げさに溜息を吐いてみせた。
紙を買い付けたり、完成した本を運んだり、重労働は新入りの仕事だが、書生上がりの痩せた中年男がそう役に立つようには見えなかった。
「いいよ。紙は俺が運ぶから」
ルカより十歳は上で、ずいぶんと痩せている。紙の買い付けをさせるのは忍びない。
「紙、好きだし」
「ははっ、変わりもんだろ、ルカは。でもいい仕事してくれんだよ。学院で学んだ文官候補だったなんて噂が立つほどだ。書き写しも翻訳も、早いの早いの」
「ほ、本当なんですか?」
「まさか」
ルカは表情を動かさないようにして手元に視線を落とす。
運んできた紙を分けて棚に入れるのだが、決められた枚数に紙を数えなければならないので、慣れるまでには時間がかかった。
「生まれた村の近くに採石場があって、古文書が出た。俺が小さい頃はまだ子供でも自由に本が読めて、そこで読み方を教えてくれた人がいただけ。ここで働きながら覚えたことの方が多いから」
「へえ」
男は感心した様子で何度も頷いた。素直そうな人だ。
「貴族の司書をやってたくらいなら、おおよそ分かるよね。うちの仕事」
「あ、はい。だいたいのことは、説明も聞きましたし」
「危ないけど、役得もあるよ」
古文書の個人所蔵が禁じられ、貴族の屋敷で雇われていた司書や研究者も、古文書と共に王宮にごっそり召し上げられた。
残った者も仕事は激減。さらに古文書研究者を抱えていると、違法流通を疑われる。そうして解雇された司書たちの一部が、本当の違法翻訳工房に流れてくるのだ。
――ただ、本が好きなだけなのに。
違法な写本を作り、翻訳本を作り、それらを欲しがる貴族や外国に流す。初めはおっかなびっくり携わっていたが、ルカは次第にこの仕事が好きになっていた。
原本は王宮の目の届かない裏で取引され、幾人かの手に渡ったあと、新たに発見された古文書として王宮に収められる。そうなれば厳重に管理され、もう二度と手にすることはできないだろう。
世に出回らないはずの古文書が読める。
ルカは古文書のかさついた表紙をそっと指でなぞった。
――本が読めれば、なんでもいいや。
最後に残った銀のペンは、寝ても覚めても服の下に隠しているので、ずっと使わないままだけど。セルジュからの贈り物が手元にある限り、本を読み、文字を書く。
ルカは新人を指導しながら自分の仕事に手をつける。
文字を読み、書き写す。古文書は翻訳案を作り、怪しげな雇い主――違法翻訳を取り仕切るどこぞ貴族の使いだ――の許しをもらえれば、翻訳本を書き上げる。
そうして小さな長屋の一室で、黙々と作業する合間に休憩を取る。
毎日同じことの繰り返しだが、毎日のように新しい本が読めるのだ。
「セルジュ様の入市式をやらないって、本当なのか?」
休憩中に薬草茶を飲みながら、書写の誰かが呟くように尋ねた。
「そもそも帰郷の報せが発表されないなんてあるのか? 帰って来るって噂がデマだってりして」
「いやあ、共同王とセルジュ様の不仲は有名だろ。兄君の嫌がらせで式もやらせてくれないとしても、そんなにおかしくはないな」
街は不穏な噂で溢れている。
国王は重病、共同王は叔父の傀儡。早々に後継者指名がなされるべきなのに、継承権第一位の次男は国外に追いやられている。
さらに国王の病はセルジュが盛った毒が原因で、バチストはセルジュを断罪したいが証拠がなく、苦し紛れに隣国へ留学に出したのだとか。いいや、毒を盛ったのはバチストたちアクィテーヌ家で、真相が明かされぬようセルジュを国外へ出したのだとか。
まあ、とにかく様々な説が飛び交っている。
どの話でも結局人々が言いたいのは「そんな王宮に国を任せておいてよいものか」だ。なんでもいい、誰でもいいから、今の状況を打破してほしい、と。
「北門の方でまた決起集会やるってな」
「どうせすぐモント隊に捕まるだろ。来月あたりまた反乱軍狩りだって言い出すぜ」
「あー、念入りに古い本隠しとかないと」
あちこちで反王政派と呼ばれる人々が声を上げては、王宮騎士に捕まっている。反王政派の多くは貴族でもなく学者でもなく、ましてや軍人でもない、市民だ。締め付けの厳しい界隈の商人や、城壁の元工夫や家族が多い。
「ルカ、お前も兄さんを亡くしてたよな」
「うん」
ルカは小さく頷く。
素性をどこまで明かすかは常に悩むが、この裏通りで城壁崩落の被害者は周囲の同情を引けた。
「俺も警備兵に知り合いがいたんだよ。事故に巻き込まれて大怪我して、何日も苦しんで死んだらしい……村の家族のために出稼ぎに来てたイイ奴だったのにさ」
「石を運ぶのも、壁を作るのも、その壁の下敷きになるのも、壁の外から来た平民だもんな。王宮は壁の外の人間を人間だと思ってねえんだ」
「お前も外の出身だろ?」
「うん、分かるよ」
でも……その先をルカは口にしなかった。
分かり合うこともできた。
王族だからという理由だけで、恨むこともできない。
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