第17話
葡萄の収穫が始まる。
今年は豊作で質が良い、きっと良いワインが出来ると喜んでいたのは、東部に広大な葡萄畑を持つ地主の息子だった。
セルジュが珍しくこの話に入り、会話が弾んでいたのでよく覚えている。
亡き母君からセルジュが継いだフォンフロワド伯領は、シュアーディ王国西部に位置し、葡萄とワインの産地として有名だ。東部の丘陵地帯はどこもかしこも葡萄畑で、可能な限り葡萄を植えまくっているそうだ。
ワイン好きな御曹司たちは、近く飲める予定の新酒に思いを馳せていたが、ルカはまだ酒が美味いものなのか不味いものなのかもよく分からなかった。
収穫祭を前にどことなく浮かれた空気の講堂で、いつも通り講義が進んでいく。
ルカが敬愛するセレスタン教授の政治学の講義中だった。
古文書の写本から、帝国時代の税制改革について読み解いている最中であった。
「……揺れましたね」
セレスタン教授がゆっくりとあたりを見回す。
カタカタと机が振動した。それは僅かな間だったが、ルカも自分の机が揺れたことに気付く。
その直後、ドドッという低い音が聞こえた。そう大きな音ではない。しかし確かに、どこか遠くで、大きなものが落ちたような、そんな音だった。
「聞こえたか?」
「どこからだろう。なんの音だ?」
静かに講義を受けていた学生たちが囁き合い、セレスタン教授がそれを鎮める。
「私が確認してきましょう。皆さんはこのまま待つように」
セレスタン教授が戻って来るまで、かなりの時間を要した。
普段のルカならば教材を読み進めるか、書きかけの論文に手をつけただろう。しかし今は、胸騒ぎがした。
学院を飛び出そうとして、まず警備兵に止められた。学院の出入りは厳しく管理されていて、許可を取らなければ外出は許されない。
しかしルカは振り切った。
「緊急事態なんだ!」
小柄なルカを止めるのに、兵士はそう力も入れていなかったのだろう。力いっぱい体を捩るとあっさりと兵の腕から抜け出した。
その隙を見逃さず、ルカは門から駆け出す。アルフォンスがよく通る大きな声でルカを呼んだが、聞こえないフリをした。
王都はどこも石か煉瓦造りで、どれが住宅でどこからが城壁なのか一見しただけでは分かりにくい。
第一城壁を抜けて、街の南側へ。赤茶色のレンガの迷路を必死に駆ける。
王都をぐるりと取り囲む城壁は、壁と塔が交互に配置されている。
古くからある第一城壁は、高台の上の街を支える土台に少し高さを持たせたような作りで、一部の塔を除いて本当にただの壁だ。第一城壁とは異なり、新しく作られた第二城壁は、壁の中に人が住めるようになっている。
その城壁が崩れた。
第二城壁の最初期に建てられた塔と塔の間の石垣が崩れ、その上の壁と住宅部分が半分ほど崩落していた。
「動ける者は広場へ避難しろ!」
「まだ崩れるかもしれん、隣の区画も全員だ!」
崩落の現場では警備兵が人々を誘導していた。城壁の内側、南北にある聖堂の広場へと皆が逃げていく。壁の外側へ逃げた者もいるだろう。
「レオン! レオンー!」
ルカは流れに逆らって、人の波を掻き分けながら城壁に近付く。
あの場所は、無惨に崩れ去った煉瓦の壁の中には、ルカの兄のレオンが住む部屋があった。
最悪の予測が当たってしまった。
入り組んだ建物の向こう、狭い路地を埋め尽くすように壊れた煉瓦が重なり合っている。
路地から五百リーニュの高さまであった城壁の一部が、抉り取られたようになくなっていた。
落ちてきたレンガに当たったのか、何人か地面に倒れている人の姿も見えた。他人を押しのけて逃げようとする者もいた。あちこちで悲鳴が上がる。
「おい、なにしてる! 危ないぞ!」
「兄貴がここに住んでるんだ! 外側の警備兵だよ、見張りとかやってる。レオンっていうんだ、知らない?」
「レオン? お前、レオンの弟か」
兵の中のひとりがルカの叫びに気付いた。レオンを知っているらしい。
「レオンはどこ⁉」
「いや、見てないが……外側にいるんじゃないか」
崩れた城壁に近付こうとするルカを、警備兵が抱え上げて止める。
「やめとけ、まだ崩れそうなんだ!」
「レオン! レオン!」
「外にいたら助かってる、下敷きならくたばってる! チビが行ったところでなんになるってんだ! 邪魔だ、さっさと逃げろ!」
そんなことは分かっている。自分が行ったところで何が変わるわけでもないと、分かっているのだ。
ルカは警備兵の太い腕にしがみついて唸り声をあげる。
「分かってたのに……危ないって! 崩れるかもしれないって、分かってたのに!!」
こんなに悔しかったのは初めてだ。
「ルカ!」
喧騒の中から、セルジュの声を聞き取ることができた。
警備兵の腕にぶら下がっていたルカは慌てて振り返り、人混みの中にその姿を探す。学院で城壁崩落の知らせを聞いたルカは、みんなが止めるのも聞かず、門兵の制止すら掻い潜って飛び出してきたのだ。
まさか、セルジュが追いかけてくるなんて。
「ルカ! どこにいる⁉」
「セルジュ様!」
遠目にもすぐに分かった。午後の陽光を受けて煌めく髪、周囲より明らかに上等な服を着て、人の流れに逆らってこちらに向かってくる。
「セ、セルジュ……? まさか、第二王子殿下でいらっしゃいますか!」
警備兵は思いもかけない貴人の登場に声を裏返らせる。
「殿下、このようなところに。危のうございます」
「友を迎えに来ただけだ。その子は私が引き取る」
セルジュの静かな声に警備兵は後ずさるように身を引いた。
「兄君には会えたのか?」
ルカはゆるゆると首を振った。
「すみません……戻りましょう。危ないので」
急に頭が冷えた。
セルジュたちが止めるのも聞かずに飛び出して、なんの役にも立たないくせに危険な場所に来て。
ふたりは今度は人の流れに乗って、王都の中心、学院のある第一城壁の中へと向かった。
ルカはセルジュの広い歩幅に置いて行かれないよう、必死に足を動かす。
「アルフォンスは一緒じゃなかったんですか?」
「怪我人がいたので運ばせた」
「……そっか」
ギャッと子供の甲高い鳴き声が響いた。
三つか四つの、普段なら一人で街を歩かせられたりしない小さな子だ。親とはぐれたのか、一人地面に尻をつけて泣いている。路地のすみで、どちらへ進めばいいか分からなくなって泣き出してしまったのだ。
逃げ惑う人の足が、その子の肩を蹴り飛ばした。
「あっ!」
このままでは人々に踏み付けにされてしまう。ルカは咄嗟に子供に駆け寄った。僅かな距離を移動しただけでも人にぶつかり、土の地面に派手に倒れる。
セルジュに助け起こされながら、身を低くしたまま子供のいる場所にたどり着いた。小さな体を抱えて建物の壁に身を寄せる。
蹴られた衝撃に泣き止んでいた子は、すぐさままたキンと耳に響く声で泣き出した。
「大変なことになった」
セルジュの溜息交じりの言葉を聞きながら、ルカはわけも分からずに泣く子供を自分の胸に抱え込んだ。
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