第32話

 ルカが遅れて戻った理由を、セルジュもアルフォンスも訪ねなかった。

 おおかた読書に夢中になっていたのだと思っているのだろう。


 昼食の後、そのままお茶の時間を取ることになった。

 夕方からセルジュに用事があるためだ。

 セルジュ専用の食堂の窓を大きく開き、陽の光の入る場所に長椅子が並べられる。

 寝室、書斎、朝と昼の食堂、夜の食堂と、王子の部屋はいくつもある。湯を使える浴室まで個人で持つのだと知った時は、ルカは言葉を失った。ルカには客間の一室を与えられている。


「本日のお茶はジャスミンとミントのグリーンでございます」

 壮年の男性使用人が長椅子の前の小さなテーブルにティーセットを置く。

 使用人が持つポットから注がれたお茶は鮮やかな緑色で、あたりに爽やかな香りが漂い、ルカは思わずほうとため息をついた。


 かつて、茶と言えばある特定の植物を指したと、古文書に記されている。

 帝国が繁栄した時代にはすでにその植物は入手困難な希少種だったそうだ。

 現在、さまざまな植物を乾燥、熟成、時に焙煎して、最終的に煮出して味や香りを楽しむもの全般が茶と呼ばれている。

 帝国時代の初期にはカップの下に小さな皿を置くのがマナーだったと書かれた文献も見つかっているが、それがどんな物だったのか今はもう分からない。


「美しい緑色だ」

「恐縮にございます」

 セルジュの短い賞賛に使用人は頭を下げる。


 お茶は緑色が最も高貴で、次いで赤色、褐色、黄色と等級が下がっていく。

 ルカが以前村で飲んでいたのは薄い黄色で、こんなにいい香りはしなかった。


「今日はどんな本を読んだ?」

「えーと。帝国法学総論、去年のバザクル大学編集。古文書は、薬草と鉱石の効能、南方大陸の植物について、皇紀600年の皇帝への献上品一覧が五冊と、あとは春の詩歌集を」

「詩歌もちゃんと読んだのか」

「端から順に読んでいるので」


 ルカは悩んでいた。

 先ほど庭でオーレリアンとバチストに遭遇したことを、セルジュに言うべきかどうか。


「セルジュ様」

 話の切れ目でアルフォンスがなにやらセルジュに耳打ちをする。


「ルカに良い知らせがある。トマシュが王都に戻って来るぞ」

「トマシュが!」

 ルカは反射的に立ち上がりそうになって、誤魔化すように座り直す。

 文官の身分となったトマシュは、セルジュの使いでしばらく都の外に出かけていた。

「すぐ会えるように手配しよう」

「ありがとうございます。でも、どうしよう……絶対怒られるますよ、勝手にいなくなったこと」







 ルカは香り高いお茶を啜ってから、何気なさを装ってセルジュに問いかけた。

「オーレリアン共同王って、どんな人ですか?」

「……どうした、突然」

「えーと、実はさっき中庭で、チラッと見かけたんです。オーレリアンとバチストを」

 言ってからルカは小さく舌を出した。

 共同王と後見を、つい呼び捨てにしてしまったからだ。それを聞いた給仕たちが目を見開き、しかし取り乱さないようにすぐ表情を戻す。


「バチスト殿は急用が入ったと、今日の顧問会議を欠席していたが」

「え? そうだったんですか?」

 てっきり、中央の宮から西の宮へ移動する途中だったと思ったが。

「バチスト殿は視察や会合でよく外出なさる方ではあるが……そうか。昼に、庭にいたのか……」


 セルジュが手を挙げ、アルフォンス以外の使用人を部屋の外に出した。


「兄は、決して愚鈍な傀儡ではないはずだ」

 ティーカップをテーブルに置き、セルジュは長椅子に深く腰かけて腕を組んだ。

「私は六歳から十歳まで、母の生家であるフォンフロワド伯領で過ごした。だから兄との交流はそう多くはなかったが、王宮内で時折見かけるオーレリアン第一王子は、聡明で努力家で、立派だった」

「はい。正直、想像していたのとは雰囲気が違いました。バチスト様の言いなりになって何も言い返せないような、そんな関係性だと聞いていたので。先ほどのオーレリアン共同王は、バチスト様を諫めているように見えました。以前はどうか分からないけど、今は共同王の方が舵取りをしているんじゃないですか」


「だから、困るのだ」

 セルジュはこめかみに手を当てて目を伏せる。


「バチスト殿が兄をいいように使っているのなら、バチスト殿を廃すればことは解決する。しかし、兄が自分の意思で数々の施作を推しているのだとしたら……私は共同王を廃することなどできない」

「確かに……」


 オーレリアンが共同王に即位したのは若干二十歳の時。

 若い王族には血縁の後見人が就く慣例で、バチストはその地位を利用して病床の国王を差し置いて権力を手中に収めたのだ。

 しかしオーレリアンも二十七歳となった。

 後見をなくし、国王に変わって自分が政を取り仕切ると宣言してもなんらおかしくはない。

 それなのにバチストを後見としたままでいるのは、バチストにすっかり操られているか、何か思惑があるかのどちらかだ。


「しかし私も何もできないわけではない。ひとつ、策があるのだ――それで、ルカに頼みたい仕事がある」

「仕事ですかっ」

 ルカは文字通り飛び上がった。

 好きなだけ本を読める生活は魅力的だったが、自分もセルジュの役に立ちたかった。

「新制度の草案を手伝ってほしい」

「いいんですか? 俺はまだ何も役職に就いてないし、勝手にそんなことをして」

「提出は私の名ですることになってしまうが」


 セルジュが促すと、すかさずアルフォンスがテーブルの上に紙を広げた。

 束ねられていない紙に、走り書きに近い簡略化された文字がびっしりと書かれている。

「基礎学校の拡充、各地の病院の増設、無産市民への職業斡旋促進……古文書流通の自由化!」

 魅力的な文字が並んでいた。

 ルカの心は一気に学生時代に舞い戻った。同期たちと法典編纂をした、あの頃に。

「こ、こんなこと……出来るんですか?」

「君からその言葉を聞くとは、驚いた」

「すいません」

「君のしたいように作ってみてくれ。君の理想の世界を」

















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