第20話
普段着に、緑色の服はあまり着ない。
毎日染め物を着られる裕福な家でも、緑を着るのはこの時期だけだ。逆に、春に赤や濃い紫を着るのは、無粋な成金と言われてしまうだろう。
ルカは全身緑色になった自分を鏡で見て、込み上げてきた笑いを噛み殺す。
「わあ、いいじゃない。よく似合ってるよ」
ルカの着替えを待っていたトマシュがニコニコと近付いてくる。彼も上から下まで緑色を纏っていた。
「誂えたみたいにピッタリだよ」
「ほとんど誂えたんだよ。簡単に直すだけ、なんて言ってたけど、全身しっかり採寸されたし」
この衣装もセルジュのお下がりだが、元の服からほとんど作り直されている。二年前にセルジュが着たのだが、当時のセルジュは今のルカより二回りほど大きかった。
若草色のサーコートは立派な襟付きで、葉や蔦の文様刺繍は絹糸で光を受けてピカピカと光を反射する。なにより裾が長く、膝下までゆったりと覆われているのが大人っぽい。左右のスリットから、こちらも若草色のチュニックの波打つ裾が覗いているのも優雅だ。上腕のふくらみも、裾の襞も、贅沢に布を使っていてまるで貴族の若者のような装いだ。
ルカは十五歳になっていた。
学院に入学した時は同期生たちに埋もれてしまうような体格だったが、十五歳にもなれば少年の背はぐんと伸びる。長い裾の衣装も着られるだけ手足も長くなった。
セルジュがこの服を着たのはもう二年前のことで、洗濯をし、さらに仕立て屋に頼んでサイズを直している。
それでも、セルジュが着た服を自分も着ているのだと思うと、ルカはひどく緊張した。二年前、初めて衣装を貰った時には、こんな風にならなかったのに。
「セルジュ様とルカは、なんていうか、いい関係だね」
「なんだよ急に」
「僕は最初、平民は貴族に目を付けられないように隠れておこうって言ったけど。ふたりを見てると、王族と石工の息子だって、対等になれるんだって思えて。なんだか嬉しくて」
トマシュはルカの髪を撫でつけながら微笑んだ。まだ長いとは言えないが、ルカももう前髪を耳にかけられるほどの長さになった。
「こんな素敵な衣裳をまたもらって。これだけ信頼されてるなら、卒業後はこのままセルジュ様付きとして取り立ててもらえるんじゃない?」
「……そういうのって、ズルじゃん」
トマシュの言葉に、ルカはむすりと唇を歪めた。
「もう、いつまで甘ったれたことを言ってるの。このご時世、仕事の取り方なんか選んでいられないよ」
トマシュは小さな子供に言い聞かせるように話す。いつまで経ってもルカを子供扱いするのだが、ずっとこの関係だったのルカも不満げな顔をしながら文句は言わなかった。
「信頼を得て側付きになるなら名誉じゃないか」
「普通は見習いからだろ。ちゃんとした文官になるには何年もかかるって、覚悟はしてる」
王立古文書研究学院を卒業したら、教授たちの推薦書がもらえる。王宮勤めを希望するならそれを持って文官見習いとなるのだ。大貴族の跡取りなら別だが、ルカのように後ろ盾のない者はもちろん、貴族でも下級の家柄なら数年は使い走りだ。
「頑固だなあ」
ルカの髪を整え終えたトマシュは、肩をすくめて戸口へ向かった。
例年通り、寄宿舎の外で同期生が集合する。
衣装の礼を言おうとしたルカを見て、セルジュは時が止まったように動きを止めてしまった。
「似合わないですかね?」
ルカが拗ねたように言っても、またしばらくセルジュは何も言わなかった。何度も瞬きを繰り返し、口を開けて何か言おうとしては口を閉じる。
やけになったルカは、クルリとその場で一回転して見せた。サーコートとチュニックの裾が広がる。
「大きく、なったな」
「なんですかそれ。久しぶりに会った親戚の人みたい」
ルカが遠慮なく噴き出すと、セルジュの斜め後ろでアルフォンスもこっそり肩を震わせていた。
学院の外に出るため、門番にひとりひとり身分証を確認される。
「面倒臭いなあ。学生だってこと、見れば分かるだろうに」
「最近本当に厳しくなったよね。顔見知りでも絶対に通してくれないもん」
「不便だよなあ」
城壁が崩れた頃から、王都の警備は一層厳しくなった。
今年も新入生が入ってこない。
春祭りの前から、聖堂には寄付を求める人で列ができているそうだ。
街の雰囲気が変わった。おそらく、良くない方に。
聖堂の広場に向かって歩く間、ルカとセルジュは自然と横に並んでいた。
「顔色がいい。元気そうだな」
「その節は、すっかりお世話に」
セルジュにはたくさん心配をかけた。
「レオンが死んで、間に合わなくて、すごくショックで……ずっと何も考えられなかったけど、思い出したんです。賢者様なら、過去をぐずぐず後悔しないで、自分にできることをやるだろうって」
「賢者様?」
「あ、話したことありませんでしたっけ」
ルカはセルジュの瞳の色にそっくりな春の晴れた空を見上げながら、ゆっくりと話した。
古代語を教えてくれたこと、王立学院の存在を教えてくれたこと、基礎学校を紹介してくれたこと。
世界を変えるという夢を、与えてくれた賢者様のことを。
「今どこで何してるかなー、賢者様。セルジュ様は聞いたことないですか? きっと有名な学者だと思うんですけど」
「賢者と呼ばれる人ならば、数人思い当たる。今はバザクル大学にいらっしゃるディミトリ・アンリ教授、顧問会議の法学者ヴァレリー殿、それに私の父も賢者と呼ばれたよ」
「国王様も!」
国王の病は、少しずつ城下にも知られてきている。王宮は隠そうとしているが、長い間隠しきれるものではない。
「まあ、なのでとにかく、勉強を頑張ろうと思いまして。今俺がやるべきことって、やっぱり学院で一番取ることだと思うんですよ」
「そうか」
セルジュはただ短く答えて、ルカを見ただけだ。
ルカの方を見てくれただけ。それだけなのに、目が合うとルカの胸の内に春の空気と共にあたたかな何かが満ちてくる。
いずれ国の学問や法律に関わる立派な職に就く。それで金が稼げれば家族や教師に恩返しができる。そう思ってきたが、今、ルカは見つけたのだ。
仕えるべき主を。
漠然と国のため、家族や村のためと思ってきた子供の夢とは違う。目の前にいる一人の人間を信じ、頼り、尽くそうという気持ち。
ルカはそっと下唇を噛んだ。そうしていないと頬が溶けて流れてしまいそうな気がしたのだ。
笑い出したいような、大声で叫びたいような、奇妙な気持ちだった。それでいて胸が絞られるように痛くて、トクトクと脈が早くなって、体中が温かい。
ルカは真新しい緑色の上着の胸元を握る。せっかくの衣装が皺になると思ったが、そうせずにはいられなかった。
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