第4話


「あれ?」

 講堂の自席でトマシュが小さく声を上げた。


 王立古文書研究学院での講義が始まって十日が経った。毎日、午前にふたつ、午後にひとつ講義があり、第二十期生はいつも同じ講堂で教授を待つ。

「あれ……あれ?」

 トマシュは一度座った椅子から立ち上がり、机の上を見渡した後、その下も覗き込む。

 ルカがその様子に気付いて駆け寄った。

「どうかした?」

「ペンが……入れ箱もなくて」

 狼狽えるトマシュの背に、どこからともなくクスクスと笑い声が投げかけられる。


「あーあ。隠されやすい物は持ち歩こうって、話したばっかりなのに」

「う、うっかりしてたんだよ。少しの時間だったし」


 貴族の御曹司たちが“仲間”ではない市民の学生をからかうのは、毎年のことだそうだ。

 ルカもトマシュも話には聞いていて、入学前には基礎学校の教師から具体的に注意もされた。

「俺の予備、まだ直ってないんだよね」

 まず最初に狙われたのは、案の定、当然とも言うべきか、ルカだった。

 初日から数々のいやがらせを受け、その度に小競り合いになったが、ペンを折られたルカが怒り狂い、主犯格を探し出し文字通り締め上げたのだ。

 アルフォンスが押さえつけて引き剥がしても暴れ続けるルカの気性の荒さに、御曹司たちはすっかり萎縮したらしい。

 ルカに対する嫌がらせは沈静化を見せていたが、今度はトマシュが狙われた。ルカに比べれば物静かなトマシュなら反撃されないと思ったのだろう。


「名乗り出れば殴らないから、トマシュのペンを隠した人、返してくれませんかね?」

 ルカが慇懃に声をかけてみるが、当然名乗り出る者はいない。

 またクスクスと笑い声が聞こえる。ルカが声の方を睨むと、二人がわざとらしく目を逸らし、その周囲の学生は慌てて首を振った。


 犯人は必ず探し出すとして、今はトマシュのペンだ。もうすぐ教授が現れて、講義が始まってしまう。

「俺のペン使っていいよ」

「えっ、でも今、一本しかないんでしょ?」

 ルカのペンは安価な木製で、一本は兄の出稼ぎの給金で、もう一本は学院入学のために基礎学校から贈られたものだった。先日片方が壊されたため修理中で、あと一本しかない。

「書けないなら覚えるよ。講義一回くらいなら、できるんじゃないかな」

「いくら君でもそれは無茶だよ」


 トマシュの席の近くに座る学生たちは、下を向くか、目が合わないように明後日の方向を見ている。この中にはトマシュのペン入れ箱が持ち去られるのを見た者もいるはずだ。誰も止めず、誰も犯人の名を口にしない。

 わずかに哀れみの目を向けてくる者もいる。嫌がらせには関わっていないのだろうが、だからと言って善人だとも思えなかった。ルカたちに挨拶の一つもしてきたことはない。ただ単に厄介ごとから目を背け、見て見ぬふりをしているだけだ。


「いいから。やってみたら、案外面白いかもしれないし」

 ルカがトマシュにペンを押し付けようとしたところで、ふたりの顔の間に白い手が現れた。

「これを使え」

 白い手には銀の細工が美しい一本のペンが握られている。

 セルジュだった。

 白い手首を覗かせるチュニックは藍の薄染め。その上に羽織った袖なしのサーコートは高貴な赤紫色で、大きな襟にはセプティマール王家の紋章である天秤が描かれている。

「インクはあるのか?」

「え、あ、あの……はい。インクは、あります」

「なら、これを使え」

 トマシュが呆然と口を開けているうちに、セルジュは机の上にペンを置いてしまう。

 改めて見てもとんでもない高級品だ。いったい銀貨何枚になるのだろうか……よもや、金貨で支払われた品ではないだろうか。ルカはまだ金貨を見たことがなかった。

「あ、ちょっと」

 ルカもついペンの豪華さに気を取られてしまった。ハッと気付いてセルジュを呼び止めようとしたが、ちょうど講堂に教授が入室してきた。席から離れていた学生が一斉に自席に着く。


「ちょっと。待って。待ってくださいよ、王子、これって」

 長い足で後方の席へと歩いて行ってしまうセルジュに、ルカが思いつく限りの言葉を投げかけると、すかさずアルフォンスの怒声が飛んでくる。

「このチビ! 気安く殿下を呼びつけるなと、何度言えば分かるのだ!」

「大声出さないでください。いつもチビ、チビって、俺はこれから成長期に突入する十二歳です。それに、もし大人になって背が低いままだったとしても、それを罵る方が人として小さいと思いますけどね」

「ぐぅっ、貴様、毎度正論を並べおって」

 セルジュの従者、アルフォンスは名門騎士ガーランド家の出身で、王家への忠心に溢れている。溢れすぎていて、ルカには暑苦しいほどだ。


「小さなルカも、大きなアルフォンスも、席に着きなさい。講義を始めますよ」

 教授の静かな一喝に、ルカもアルフォンスもさすがに口を噤む。

「すみませんでした」

 ルカはセルジュに譲ってもらった最前列の席に小走りに戻る。


 本日ふたつめの講義は、ルカが敬愛するセレスタン教授の政治学だ。古文書からかつての帝国の政治体制を読み解く。

 ルカは政治学と法学、それに建築設計の講義が好きだ。特にセレスタン教授の解説は大変分かりやすく、かつ示唆に富み、何時間だって聞いていられる。ちなみに医学はまあまあ、詩歌は少し眠くなるから苦手だった。

 教授は大人しく席に着いたふたりを見て、ひとつ大きく頷くと、いつも通り静かな声で講義を始めた。

















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