第四章 朝靄とともに ~第六節~

「……ちょっと頼みがあって来たんだけどさ。いいかな?」

「獅伯さまとわたしの仲ですもの、何でもおっしゃって……といきたいところですけど、頼みごとの内容にもよりますわね」

「役人を呼んでくれ。できるだけ早く」

「お役人さまを? どういうことですの?」

「連れがいなくなった?」

「お連れさまとおっしゃると……」

「まあ、いまさらなんで正直にいうけどさ」

 椅子を引きずって寝台のそばに移動し、獅伯は続けた。

「――具合が悪いっていってた末の妹、実は妹じゃなかったんだよね。具合が悪いのはほんとだけど」

「妹ではない……?」

「うん。道中で拾った異国生まれの娘で、よく判らないんだけど、兄がいうには大食たいしょく人で、まあ……たぶん蒙古が連れてきた奴隷か何かなんじゃないかなって」

「大食人の娘……ですか」

 紅を落とした唇を撫でながら、青霞が目を細める。獅伯の告白を耳にしても特に驚いた様子はなく、ただ何ごとか考え込んでいるようだった。

「――うちの兄は好奇心が強いというか、何にでも興味を持っちゃう人間だから、その子を看病して元気になったら、異国の話を聞かせてもらえると思ったらしいんだよね。で、おれにかつがせてひとまずここまで来たわけ。ただ、いきなり異国人を連れてきて門前払いされると嫌じゃん? だから青霞さんたちには、末の妹だって嘘をついてたんだよ。悪いね」

「そのことはよろしいのですけど……でも、いなくなったというのは?」

「言葉通りだよ。おれたちはちょうど桂花殿に招かれてたんだけど、妹がちょっと薬湯をもらいにこの楼へ来ていた間にどこかへ消えてた」

「それは……逃げたのではありませんの?」

「おれもそう思う」

 獅伯は足を組み、頬杖をついてうなずいた。

「もしおれが異国の地で奴隷にされてたら、隙さえあれば逃げ出すだろうしね。熱がようやく下がってきて具合がよくなったかなー、って思った矢先のことだから、あの子も逃げたんだと思うんだけど、どうも兄は納得がいかないらしいんだよ」

「それでお役人を呼んでほしいとおっしゃいますの?」

「とにかく捜してもらいたいんだとさ。そんなことしたって見つかるとはかぎらないし、だいたい、たとえ首尾よく見つかったとしたって、うちの田舎に異国人の娘なんか連れて戻ったら一族揃って大騒ぎになるだろうに……学問はできてもそういうところは頭が回らないんだ、兄は」

「そういうことでしたら……ええ、かまいませんわ、夜が明ける前に弟をやって、お役人さまに来ていただきましょう」

「助かるよ。やるだけやって兄が納得してくれればいいんだ」

 椅子から立った獅伯は、粒銀を紙に包んでねじったものを懐から取り出し、青霞の手に握らせた。

「徳雄くんへのお駄賃と、あとは役人へのつけ届けに使ってよ」

「わざわざのお気遣い、ありがとうございます」

「それじゃおれは兄をなだめてくる」

「あら、もう行ってしまわれるの?」

「悪いね。兄が癇癪を起して妹に八つ当たりしたら可哀相だからさ」

 愁眉を送って引き留めようとする青霞を振り切り、獅伯はまた窓枠を乗り越えて美女の私室を出ると、虚空を駆けて羽仙閣に戻った。

「獅伯さま!」

 獅伯が戻ってきたことに気づいて、白蓉が小走りにやってきた。

「――ど、どうでした? どうなったんですぅ?」

「まだどうにもならないだろ。話をつけてきただけだ」

「それってあの女主人とですよねえ?」

 そういいながら、白蓉が鼻をくんくんさせていることに気づいた獅伯は、少女の顔に無遠慮に手を当てて押しのけ、思案顔で寝台に腰かけている先生に歩み寄った。

「――一応は頼んできたぞ。あんたのいう通りに説明してきた」

「ありがとうございます。これで朝には役人が来てくれるでしょう」

「でもぉ、お役人を呼んで、いったいどうするんですかあ?」

 小さな灯籠をひとつともしただけの暗い部屋の中で、獅伯たちは額を突き合わせるようにひそひそと話し合った。

「……まず大前提として、私と獅伯さんは、シャジャルさんをさらったのがこの宿の人間だと考えています」

 先生のその言葉は、明らかに白蓉に向けられたものだった。

「……まあ、あの抜け道を見ればな」

「宿の人間がさらったっていうなら、どうして取り戻しにいかないんですか!? あの抜け道をたどっていけば、シャジャルが捕まってるところにたどり着くかもしれないんですよねえ!?」

「かもしれないってだけだ。無策で突っ込むのは危険すぎる」

 あの通路の先がどうなっているのか、ちゃんと確かめたわけではない。途中で複雑に分岐しているかもしれないし、行き着いた先に物騒な連中が待ち構えているという可能性もある。

「……何より、ここで迂闊な真似をして、シャジャルさんに危害がおよんでは本末転倒でしょう」

「それは……でも、だからってこのままにはしておけないじゃないですかぁ!」

「このままにはしませんよ」

 シャジャルの首飾りを白蓉に手渡し、先生は続けた。

「――獅伯さんに頼んで役人を呼んでもらえるように手配したのは、反応を確かめたかったからです」

「反応? 何の?」

「室内を不用意に荒らさずシャジャルさんだけを連れ去ったのは、おそらく、彼女が自分の意志で逃げ出したのだと見せかけるための小細工でしょう。もし部屋が荒れていたら、明らかに何者かが侵入してシャジャルさんをさらっていったということになりますからね」

「でもって、外部から賊が侵入して部屋を荒らしただの客をさらってっただの、そんな事態になって一番困るのは誰かっていったら、この宿の連中だろう? 本当なら、頼まれたって役人なんか呼びたくないはずだ」

 卓の上にあった夕食の残りを肴にちびちびと酒を飲みながら、獅伯は乾いた笑みをもらした。

「――でもあの女はおれの頼みを簡単に請け負った。役人を呼んでもぜんぜん問題ないって感じだった」

「たぶん、絶対にことが露見しないという自信があるんでしょう。あしたやってくるのは、青霞さんにふだんから金を掴まされ、あれこれと便宜を図っている役人なのだと思います」

「お役人さまに頼れないんじゃ、ますますわたしたちが自分で――」

 そういいかけた白蓉の口に、すっかり冷めきった饅頭を半分にちぎって押し込み、獅伯は剣を手に取って立ち上がった。

「しは――」

 先生が声をあげようとするのを制し、獅伯は音もなく窓まで飛んで、露台の手摺を蹴って一気に屋根の上に上がった。

「どうせなら中で聞いてったら? 良家の奥方が盗み聞きってのはさ、さすがにはしたなくない?」

 獅伯の視線の先では、ゆうべも目撃した黒ずくめの女が、屋根瓦をそっとはずそうとしているところだった。

「……!」

 獅伯の登場にぎょっとした黒ずくめが、腰の後ろに左手を回した。素早い動きで小さなだんきゅうを手に取り、構えようとする。しかし、獅伯が間合いを詰めて相手の肩に刃を乗せるほうがわずかに早かった。

「おかしな真似をすると、今すぐ桂花殿に行ってあんたの旦那を殴りつけるぞ?」

「く――」

 黒ずくめが弾弓を手放すのを確認して、獅伯はその顔をおおっていた覆面をむしり取った。

「やっぱりあんたか」

「…………」

 覆面の下に隠されていたのは、長い髪をひとつにまとめた麗宝の悔しそうな顔だった。

「……いっとくけど、あんた、すでにゆうべの時点でおれに見られてるからな?」

「えっ?」

「矢文で誰かと連絡取り合ってたろ? そのあと青風楼の周囲を調べてたのも知ってる。……あんた、それなりに腕は立つみたいだけど、もうちょっと周りに気を配ったほうがいいな」

 獅伯は肩をすくめ、剣を納めた。

「――夜半すぎにあれだけど、そんじゃあらためてあんたの旦那を交えて話をしようか」

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