龍に拝せよ 第二部 血風楼奇縁

嬉野秋彦

序章 闘蟋

 ねじくれた太い松と奇石を配した池のほとりで軽い弓の稽古を終え、はんぶんは額に浮いた汗をぬぐった。

「……きょうも蒸すな」

 冷たく乾いた華北と違い、江南の夏は蒸し暑い。衣を整え、四阿あずまやの日陰に入って冷たい茶でのどを潤す范文虎のもとへ、父の代から范家に仕えている老僕がやってきた。

「旦那さま、村の者たちが来ておりますが」

「ああ……そうだったな」

 范文虎は頬杖をつき、茶碗の隣に置かれた飴菓子の皿に手を伸ばした。

「虫のことなどよく判らんが……まあ、大きくて強いものを選べばよいのだろう? すべておまえに任せる」

「承知いたしました」

 耳を澄ますと、屋敷の裏手のほうから人々の喧騒がかすかに聞こえてくる。おそらく蟋蟀こおろぎを捕まえてきた近隣の村の人間たちが、それを買い取ってもらおうと裏門前に列をなしているのだろう。

「蟋蟀に喧嘩などさせて何が楽しいのか……俺にはさっぱり判らんが」

 飴菓子の甘ったるさをさわやかな渋みのある冷茶で流し、范文虎は嘆息した。

 范文虎は軍人である。蒙古を相手に一度ならず出征し、生還してきた。本当の戦場のいかなるかを知っている范文虎からすれば、盆の中で二匹の蟋蟀を争わせ、勝った負けたと熱くなっている男たちを見る目は冷ややかにならざるをえない。

 しかし、范文虎の義父は、今のこの国で位人臣を極めたといってもいい右丞相――どうである。賈似道に気に入られ、その娘をめとった范文虎には、闘蟋の楽しさなどまったく理解できなかったが、それでも闘蟋好きの義父の機嫌を取るために、大きく太った蟋蟀でも贈ってやろうか――というくらいの考えははたらく。

「旦那さま」

 三杯目の冷茶を飲み干したところで、また老僕がやってきた。

青風楼せいふうろうから遣いの者がまいりましたが……お通ししてもよろしいでしょうか?」

「まさか女将が来たわけではないだろうな?」

 范文虎は碗を置いて眉をひそめた。

「――あの女が来ると妻の機嫌が悪くなる。もし女将が来たのなら、俺は忙しいから会えないといって用事だけ聞いておけ」

「いえ、女将の弟とおっしゃるかたが……」

「ああ……あの気味の悪い男か。着替えてから会おう。奥に通して待たせておけ」

 青磁の碗を置き、范文虎は立ち上がった。

 雲が太陽をおおい隠し、ほんの少しだけ暑さがやわらいだような気がした。

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