第一章 少女たちの受難 ~第一節~

 がくしゅうから東へと長江の流れに沿って進むと、やがてしゅうにいたる。

 臨安りんあんまではまだ遠いが、このあたりまで来れば、さすがに蒙古軍の影も薄れて人々の暮らしもそれなりにおだやかに感じられた。少なくとも、知県が不在というような街はもうないだろう。

「とはいえ、この平穏もいつまでもつかは判りませんよ」

 焚き火に小枝を折って放り込み、ぶん先生が呟く。

「――蒙古がこの国への侵攻をあきらめるとは思えません。いずれ近いうちに、彼らはかならず南進を再開するでしょう」

「嫌なことをおっしゃいますねえ、先生は」

 火に手をかざしていた白蓉はくようが、悲観的ともいえる文先生の言葉に眉をひそめた。

「蒙古軍はお家騒動で引き上げてったっていう話でしたよねえ? だったらこれをきっかけに国が割れちゃってぇ、この国に攻めてくることもできなくなるかもしれないじゃないですかぁ」

「私は現実的な見方をしているだけですよ。蒙古がこちらの都合に合わせて分裂してくれるだなんて、それはいくら何でも楽観視しすぎです。よしんば後継者問題で蒙古がふたつに割れたとしても、さほど状況は変わりません。目の前の餓えた虎が餓えた二匹の狼に変わるだけです」

「そうですかぁ? ねえはくさまぁ、獅伯さまはどうお考えですぅ?」

「酒がないのが原因じゃない?」

 寝転がって夜空を見上げていた獅伯は、大きなあくびを噛み殺し、目尻に浮いた小さな涙をぬぐった。

「酒……が何なんです?」

「先生の瓢箪が空になってかなりたつじゃん?」

「それは……ええ、そうですねえ」

 獅伯とともに旅路を行く文先生は、水を詰めた瓢箪のほかに、好物の酒を満たした少し小さめの瓢箪も持ち歩いている。が、すでにその中身は空だった。きのうもきょうも、酒を買い求められるような村なり街なりには立ち寄れていない。

「要するに先生はきのうから酒を飲んでいない」

 獅伯はそこで焚き火をはさんだ向こう側にいる白蓉を見やった。

「――先生がそんな先行き不安になるようなことばかりいうのは素面だからさ。酒さえあたえておけば、だいたいこの男は調子のいいことしかいわないし、何だったらすぐに潰れて静かになってくれる」

「ははぁ」

「白蓉さん、そこで感心なんかしないでください」

 にやりと笑った少女を一瞥し、文先生は唇をとがらせた。

「酒が入っていようといまいと関係ありませんよ。私だって私なりに今のこの国と周辺諸国の情勢を考察して――」

 そういいかけた文先生か、その時、ぽかんと口を開けてを言葉を途切らせた。その視線はじっと獅伯にそそがれている。

「しっ、し、獅伯さん……? もしかしてそれは……その竹筒の中身は――」

「…………」

 文先生の問いを無視し、獅伯は竹筒に口をつけて一気にあおった。

「ちょ……! ま、待ってくださいよ、獅伯さん! そっ、それ、お酒ですよね!? かすかにそんなような香りがしますけど!?」

「そう?」

「そう? じゃないですよ! 私、けさあなたに聞きましたよね!? お酒を少し分けてもらえませんかって!?」

「そうだったっけ? 腰の瓢箪を貸してくれとはいわれた覚えはあるけどさあ」

 こちらもすでに空っぽになっている自分の瓢箪を軽く叩き、獅伯は小さく笑った。

「――だから正直に答えたよね? おれの瓢箪ももう空だってさ」

「へっ、屁理屈だ! そうやって瓢箪と別に酒を隠し持っていたなら、私に少し分けてくれてもよかったじゃないですか!」

「あんたにとって、酒はただ気分よく酔うために飲むものなのかもしれないけど、おれにとっては頭痛を癒やすための薬だからね。余分はないんだ」

「酒が薬だなんていうのは、税を搾り取るために王莽おうもうがいい出した方便ですよ! はっ、早く私にもひと口――」

「もうない。ってか、たった今なくなった。……どうしようかな、あしたから」

「ああ……っ!?」

 獅伯が無造作に投げてきた竹筒を逆さにひっくり返し、文先生はこの世の終わりを見たかのような表情を浮かべた。

「……まったく、いい年をして何なんですう?」

 てのひらに落ちてきた酒の雫をなめている文先生に冷ややかなまなざしを向け、白蓉は静かに立ち上がってほこりを払った。

「もう少し東に行けば、その何とかいう街があるんですよねえ? さすがに街に行けばお酒くらい買えるでしょうし、そこまで我慢すれば――」

「確かに李白ゆかりの秋浦しゅうほがありますけど――どうしたんです、白蓉さん?」

「いえ、ちょっと」

 白蓉は言葉を濁してそそくさと焚き火のそばから姿を消した。

「……ねえ獅伯さん、白蓉さんてちょくちょく姿を消しますよね? いったいこそこそと何をしているんです?」

 怪訝そうに首をかしげている文先生に、獅伯はいった。

「世間知らずのおれがいうのも何だけどさ、先生はもうちょっと書物以外のものにも目を向けたほうがいいんじゃない?」

「は?」

「その自覚がないってのがもうねえ」

 いっしょに旅をしてきて獅伯に判ったのは、この文吉州という書生が思いのほか女にもてはやされるということだった。道中で立ち寄った酒家や宿で若い娘がはたらいていれば、真っ先に手厚いもてなしを受けるのはかならず文先生なのである。

 白蓉がいうには、獅伯も顔立ちはそう悪くはないものの、はたからは横柄、横着で不愛想な男と見えるために受けが悪い。逆に文先生は、線が細く肌の白い優男で、おまけにつけ焼き刃ではない学識がある。そんなふたりが並んでいれば、獅伯より文先生のほうに娘たちの好意が向くのは当然のことらしい。

 別段、獅伯は女たちにもてはやされたいわけではないので、そのあたりのことは正直どうでもいいのだが、ただ、先生の化けの皮が剥がれると、反動のせいか女から急に冷淡にされるのが困りものだった。とにかく文先生は、見目こそいいものの、酒が入るととても身勝手になり、自分がいいたいことだけいってすぐに潰れてしまうのである。酒を飲みつつ女と気の利いたやり取りができるような男ではない。

「あっ!? もしかしてあれですか!?」

 文先生が唐突に手を叩いた。

「いわゆるご不浄に――」

「……気づくのが遅い上に声がでかいんだよ」

 溜息交じりにぼやいていた獅伯は、ふと首をもたげて闇の向こうを見据えた。

「どうしたんです? ……ああ、獅伯さんもですか? もしあれなら、そのへんでちゃっちゃとすませてもいいですよ? 私は気にしないので」

「その話題から離れなって」

 唇を吊り上げ、獅伯は身を起こした。

「――しっ、しし、獅伯さまぁ!」

 さっき立ち去ったばかりの白蓉が、結びかけの帯をだらしなく引きずりながら、慌てた様子で駆け戻ってくる。

「どしたの?」

「だっ、だだ――」

 裙子を必死にずり上げ、ひと息に焚き火を飛び越えた白蓉は、ぴたっと獅伯に張りつくようにすがりついた。

「だ、誰かが、お、追いかけてきたんですぅ!」

「誰が? 誰を?」

「わたしをですよう! 相手が誰かは判りませんけど!」

 白蓉は半泣きの表情で獅伯の二の腕を掴んで揺すり出した。非力な少女といっても、無意識に爪を立てられるとそれなりに痛い。

「……まずひとつ、つねるな。それともうひとつ、出すものは出してきたわけ?」

「は……?」

「ここでもらされたら困るだろ」

 白蓉の手をやんわりと振りほどき、獅伯は目を細めた。

「いまさらだけど、ふたりとも、とりあえずそこの木に登ってじっとしてることをお勧めするよ」

「……どっ、どういう意味です?」

 いぶかしげに首をひねる文先生は、ゆっくりと立ち上がった獅伯が背中に剣を背負ったのを見て、ようやく何かを察したらしい。

「えっ!? ちょ、ま、今、登りますから!」

「わ、わたしも!」

 あたふたと木に登ろうとする文先生と白蓉をよそに、獅伯は少女が駆け戻ってきたほうをじっと見据えた。

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