第一章 少女たちの受難 ~第二節~
遠くで馬のいななきが聞こえた気がする。それに続いて聞こえてきたのはぬかるんだ道を走る車輪の音だろうか。どうやらすさまじい速さで馬車か何かがこちらに近づきつつあるようだった。
「は、白蓉さん、あなたを追いかけてきたっていうのはどんな人間なんです?」
「人数ははっきりしませんけど、川向こうで野宿してたみたいで――で、焚き火のそばにいた男たちが、わたしに気づいたとたん、何かわめきまがら得物を持って追いかけてきたんですよぅ!」
「まさかとは思いますけど……その人たちを怒らせるようなことしてないでしょうね? その人たちの見た目を馬鹿にしたとか、お財布をくすねたとか――」
「し、してませんよう! わたしを何だと思ってるんですかぁ、先生は!?」
「いや、でも……」
「いいから少し黙ってそこで小さくなってなよ、あんたたちは」
太い木の枝にしがみついたまま、声を押し殺していい合いをしているふたりをたしなめると、獅伯は軽く首を回した。
やがて、湿った車輪の音を引き連れて、粗末な馬車がやってきた。
「三、四……五人、か」
馬車が停まるのと同時に、五人の男が得物を持って飛び降りてきた。確かに、星の少ない夜に、いきなりこんな連中に追いかけられれば、白蓉が出すものも出さずに大慌てで逃げ出したのもうなずける。
「それにしてもまあ……いかにもって感じのみなさんだこと」
獅伯は泰然とした態度を崩さず、剣呑な空気をまとった男たちと対峙した。
「…………」
焚き火の向こうで足を止めた男たちは、じっと無言で獅伯を睨めつけている。彼らが腰から下げている朴刀に加えて、そのすさみきった目つきが、彼らのきょうまでの生きざまを物語っているかのようだった。
「道に迷ってここへ来たわけじゃないよね? おれの連れに何か用?」
自分たちに向けられた五対のまなざしを真正面から受け止め、獅伯は尋ねた。
「……逃げた娘を追ってきた」
「は?」
「そこの娘だ」
真ん中の男が樹上の白蓉を指差した。
「いや、あれ一応おれの連れ――」
「おとなしく渡せ」
獅伯の言葉を上から踏み潰すように、男が低い声でさえぎった。
「自分の命の代価と思えば、小間使いひとりくらいどうということはないだろう?」
「小間使いじゃないんだけど……いや、でも要するにさ」
ついもれそうになる苦笑をどうにかこらえ、獅伯は鷹揚に男たちへ語りかけた。
「あんたたちって、いわゆる人さらいってこと? だよね? で、おれの連れに目をつけて、死にたくなければあの子を寄越せ? ……すごいな、ひさびさに聞いたよ、ここまで理不尽な口上」
「まさか冗談だと思っているのか? いいから黙って娘を渡せ」
「いやいや、そんなこといわれて素直に渡すやつがいると思ってる? 冗談にしか聞こえないって」
「馬鹿でなければおとなしく渡すだろうな」
「おれは馬鹿じゃないけど、おとなしく渡すつもりもないなあ」
ふてぶてしい獅伯のその言葉に、男たちはそっと顔を見合わせた。とはいえ、このまま引き下がる気配はない。無言のまま目配せをしていた男たちは、やがて朴刀の柄に手をかけた。
「やだねえ、相手の実力が判らない人って――」
朴刀を抜き放つと同時に間合いを詰めてきた男たちに向けて、獅伯は目の前で燃えている焚き火を蹴り上げた。
「!?」
火のついた薪と火の粉が舞い上がり、男たちの動きがわずかに鈍る。その隙に獅伯は宙に浮いた燃えさしの薪を掴んだ。
「熱いよ? ……そのくらいは馬鹿でも判るか」
素早い踏み込みとともに、獅伯は長めの薪で真正面の男の胸をついた。
「ぶぐ――」
炭化した薪の先端が砕け、男が激しく咳き込みながら仰向けに倒れる。それとほぼ同時に、左右から男たちが刀をかかげて獅伯に斬りかかってきた。
「あれ? 逃げないの、あんたたち? ――じゃあ、おれももう手加減はやめるよ? つまり、あんたたちが死ぬってことだけど、退かないなら仕方ないよね!」
もっとも動きが速い右の男のほうへとみずから間合いを詰めていった獅伯は、刀を握る相手の拳を下から薪で叩いた。
「うづっ……」
男の口からくぐもった呻き声がもれ、刀が地に落ちる。手応えから察するに、今の一撃で指の骨の二、三本は折れたのだろう。ただ、そこで終わらせるつもりはない。獅伯はすかさず男のみぞおちに掌底を打ち込んだ。
「がっは……ぁ」
血を吐いて派手に吹っ飛んだ男は、地べたに臥せてそのまま動かなくなった。
さらに獅伯はすぐさま振り返り、三人目の男の刀をかわしざま、その首筋へと鞭のような回し蹴りを叩き込んだ。
「てめえ――!?」
「先に抜いたのはそっちなんだから、いまさら文句いうなよ。……というか、おれはまだ抜いてもいないんだけど」
驚愕の表情で朴刀を振りかざす四人目と五人目も、ついに獅伯をその刃にかけることはできなかった。
「ぎゃっ!?」
踏み込んでくる男の膝頭を横から蹴り、がくんと体勢を崩したところへ、こめかみを狙って肘打ちを一閃。さらに最後の男には、真正面からの突きをいなして背後に回り込み、がら空きの股間を思い切り蹴り上げた。
「ぶ」
五人目の男が泡を吹いて悶絶するのを見届け、獅伯は樹上の連れたちをかえりみた。
「――もういいよ、下りてきても」
「さ、さすがは獅伯さまですぅ……」
「もしかして、全員死んじゃったんですか……?」
「葬頭河を渡らせてあげてもよかったんだけどねえ」
男たちはいずれも手ひどくやられていたが、少なくとも死んではいない。手当もせずに放っておけばいずれ死ぬかもしれないが、獅伯の知ったことではなかった。
「――ちょうどいいや、あれもいただいていこう」
かぼそく呻く男たちの懐を探って小銭を巻き上げていた獅伯は、二頭立ての馬車を指さした。
「い、いいんですかぁ、そこまでしちゃっても?」
「見方によってはこっちが追い剥ぎですよ、これは……」
地上に下りてきた文先生と白蓉が、恐る恐るといった表情であたりを見回しながら、倒れた男たちの間を縫うようにして獅伯のもとへとやってくる。
「おれは降りかかる火の粉を払っただけだし、何なら逃げる機会だってあたえてやっただろ。なのにそいつらは、頑としてそれを聞き入れずに返り討ちにされただけじゃん。……というか、そもそも誰がこいつらを呼び込んだんだっけ?」
「そ、それは……」
「まあまあ、白蓉さんだって悪気があって災難に遭ったわけじゃないんですし」
「それをいうならおれはその災難に巻き込まれただけだし、でもっておれがいなかったらあんたらどうなってたか、それをよく考えてから発言しなよ」
そういって獅伯は御者台に乗り、手綱を取ってさっさと馬車の向きを変えた。
「あっ!? ちょ、ちょっと待ってくださいよ、獅伯さん! どこ行くんですか!?」
「置いてくなんてひどいですう!」
慌てて自分たちの荷物を拾い上げ、文先生と白蓉はのろのろと動き始めた馬車の荷台によじ登った。人を乗せるというより大量の荷を積んで運ぶような馬車で、乗り心地は決してよくないが、歩いていく苦労を思えば充分にありがたい。それに、馬も馬車も、いざという時には売って金に換えることができる。
細い竿の先にぶら下げた提灯の明かりが、川沿いの道をごとごとと進む馬車の行く手を弱々しく照らし出す。しかし、さしあたって民家らしき明かりは見えない。ただひたすらに夜の闇が広がっている。
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