第三章 水なめらかにして凝脂を洗う ~第六節~

 ならばその配慮がちゃんとできているのかと、獅伯はそう先生に問いたかったが、とりあえずはおとなしく彼の言葉を聞くことにした。

「対して獅伯さんの欠点は……あー、この際、それを欠点と呼ぶのは正しくないのかもしれませんけど……あれですよ、とにかく獅伯さんは、ご自身以外のもの、特にほかの人間に対する興味や関心が薄すぎるんです。薄い」

「……酔っ払いのわりにはまともなこというんだな」

「獅伯さんがほかの人間をまるで見ていないわけではないと思います。むしろ、ある意味では非常によく見ている。目の前の相手の力量を見抜くだの、相手が得意とする得物だの、さりげない足の運びとか……あれです、剣の達人ならではの眼力はお持ちでなんしょう。――ただですね、いかんせんあなたは、相手の胸中を忖度できないといいますか……あれだ、忖度しようとしなさすぎです」

「そういうのって、場合によっては邪魔になるからな」

 他人の気持ちを理解しようとすれば、少なからず自分を犠牲にしなければならない局面にぶつかる。道端で飢えている老人を憐れんでほどこしをすれば、いずれ自分が飢えて苦しむことになるかもしれない。理不尽な暴力にさらされている弱者を救おうとすれば、代わりに自分が傷つくことになるかもしれない。

 獅伯には自分の過去を捜すという目的がある。そのためには、情を揺り動かされることからあえて目を背け、耳をふさぎ、足早に先を進んだほうがいい。

「私にも判らなくもないですよ。獅伯さんが人の胸中を忖度しない、したくないと考えている理由はね。……それが原因で、いつもひどくぶっきらぼうな態度を取っているのも判ってます」

 文先生は空の碗に茶をそそぎ、逆に獅伯に差し出した。

「――ただ、獅伯さんは性根がやさしい人だから、あー……そこに無理があるんです。助けを求められると、なかなか無下にできない。いつものようにからかっていうわけではありませんが、獅伯さんはそういうやさしい人間なんです。悪いことじゃないと思いますよ」

「……ほめられてるようには思えないけどな」

「人のやさしさをほめられるほど、私も上等な人間ではありませんからね。……ただ、それは事実だ」

「そうか」

 冷たい茶をひとすすりし、香りのいい吐息をもらして、獅伯はふと気づいた。

「――いや、待て。ちょっとよさげに聞こえる今のあんたのお説教が、あいつのあの態度とどう関係があるんだ?」

「ですから……途中で考えるのをやめてしまわずに、もう少し相手の立場になって、想像力をはたらかせてみればすぐに判ると思うんですが――判りませんか?」

「おい、何をにやついてる?」

「たとえば……ほら、さっき私が獅伯さんに、青霞さんの部屋に行ったのかと詰め寄ったでしょう? なぜか判りますか?」

「それはまあ……たぶんだけど、先生もあの女主人を狙ってた――から?」

「ほぼ合ってます。まあ、私は美女を見ればいつでもあわよくばと考えているので、獅伯さんのその感じ方はおおむね正しい」

「……堂々といいきるね、あんたも」

「であれば、男と女という立場の差はありますが、白蓉さんの気持ちも想像できるんじゃないですか?」

「…………」

 そういわれれば思い当たらないことがなくもない。ただ、これこれこうだと断定できるほど自信があるわけでもない。獅伯は身を乗り出し、ことさら声を低くして先生に尋ねた。

「……いや、それはないだろ。あいつがおれに惚れてるって?」

「それがあるんですよ」

「だからありえないって。……だいたい、おれとあんたらは、出会ってからまだひと月くらいなんだぞ? たったひと月だ」

「ひと月あれば充分すぎます。出会った瞬間に恋に落ちるなんていうのは珍しくもないことですからね。現にらんしんさんがそうだったじゃありませんか」

「蘭芯とあいつは違うだろ。似てるのは年齢と、あとは……まあ、どっちも女ってことくらいだ」

 りゅう蘭芯は良家のひとり娘として育てられ、そもそも恋愛対象になるような若い男と接する機会がほとんどなかった。そんな蘭芯が、出会ったばかりの獅伯にたびたび命を救われたのである。ふつうではありえないそうした状況が、世間を知らない少女に一時の熱情をいだかせるということも、確かにあるかもしれない。

 しかし白蓉は、蘭芯とは逆に、幼い頃から何度も修羅場をくぐり抜けてきている。悪くいえば蘭芯よりすれていて、いちいち出会った男にひと目惚れするような娘とも思えない。

「だから、あいつがおれに惚れてるとか、それで焼き餅を焼いてるとか、そういうことはないと思うぞ?」

「結婚どころかまともに恋をしたこともないくせに、何をしたり顔でいってるんです? 少なくともこの道では、獅伯さんより私のほうが達人です。つまり、私の見立てのほうが真実に近いということですよ」

 文先生が恋の達人かどうかはさておき、獅伯よりも経験豊富というのは否定できない事実だった。何しろ向こうは結婚までしている。

 先生は獅伯のすぐ隣に椅子を運んでいって気安げに肩を叩いた。

「自覚しましょう、獅伯さん。あなたは黙っていればそこそこいい男なんです。加えて腕も立つ。相手に対する配慮がないということさえ見抜かれなければ、あなたは女にもてるんですよ。だからあなたのゆうべの夜這いも成功した。……違いますか?」

「いや、話は戻るけど、ほんとにおれは夜這いとかしてないからな? そこからしてまず誤解なんだよ」

「ではその真新しい衣は何なんです?」

「これは……いろいろあってびしょ濡れになったから、あの女が着替えを用意してくれたんだよ」

「川にでも落ちたんですか? 獅伯さんらしくもない……」

「いや、川じゃなくて……風呂桶だ」

「は?」

 ぼそりと吐かれた獅伯の言葉に文先生が目を丸くする。

「さっきもいったけどな、ゆうべちょっと頭のおかしい女主人の弟とやり合うはめになったんだよ。で、いろいろあっておれが派手に吹っ飛ばされて、たまたまそこであの女が風呂に入ってただけの話だ。それでまあ……何というか、そこでいろいろあって服が真新しくなった、と」

「いろいろあった部分をすっ飛ばさないでくださいよ! そこが一番肝心なんじゃないですか!」

「いや、だから! 間違って風呂桶に突っ込んだら、何となくいっしょに身体を洗う流れになって……いっとくけどな、おれはすぐに立ち去ろうとしたんだぞ? それを向こうが引き留めてきて」

「そっ、それで? それでどうなったんです、そのあと?」

「いや……それはさすがにいわなくても判るだろ? おれだって木石じゃないんだし、女のほうからそうやって誘われたら、否応なく盛り上がるわけで」

「おおっ、盛り上がりましたか! そっ、それでそれで!?」

「どうしてあんたが目を輝かせるんだよ? ……でまあ、そのあといっしょに女の部屋にいって、語り尽くせないあれこれがあって、ろくに眠れずにおれは新しい衣をもらって戻ってきた」

「ですから、語り尽くせないあれこれをすっ飛ばさないでくださいよ! そこも肝心な部分なんですから――」

「うるさいですよ!」

 文先生が獅伯の肩を掴んで揺さぶっているところに、ことさら低い白蓉の怒鳴り声が割り込んできた。

「――病人を気遣えないとか、ふたりとも最低です! 獅伯さんも先生も死んじゃえばいいのに!」

 階段の途中まで下りてきてそうわめいた白蓉は、どすどすと聞えよがしに葦を踏み鳴らし、上の階へと戻っていった。

「……今のあいつの不機嫌さはおれのせいじゃない。絶対にだ」

「め、面目ありません……」

 獅伯は自分の肩にかかった先生の手を振り払い、大仰な溜息とともに頬杖をついた。

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