第三章 水なめらかにして凝脂を洗う ~第五節~
「……何? どしたの、みんな? 起きるの早くない?」
「それはこっちのセリフですよう!」
「どこに行ってたんです、獅伯さん?」
「え? いや……ちょっと気持ちのいい朝だったんで……」
「ゆうべ何やら外で大声がしたんで目が覚めたんですが、その時にはもういませんでしたよね、獅伯さん?」
「ひと言あるならまだしも、勝手にいなくなるなんてひどいですよう!」
「いや、声をかけて出ていくような用事じゃなかったというか――」
ゆうべの徳雄とのいざこざを説明すべきか、あるいはその前の、桂花殿の黒ずくめのことから語るべきか、獅伯が腕組みして悩んでいると、シャジャルが白蓉の袖を軽く引っ張った。
「……獅伯、さっぱりしてる」
「えっ? ……いわれてみると、確かに――」
「っていうか、獅伯さん、どこでそんな仕立てのいい衣を手に入れたんです? 着替えなんて持ってませんでしたよね?」
「いや、これは」
「あっ!?」
獅伯の周りを歩きながら首をかしげていた文先生が、何かに気づいたように目を丸くした。
「……ま、まさか獅伯さん、青霞さんの部屋に行ってたんですか!?」
「え?」
「だって、この衣からかすかにただよう香って、これって確か、青霞さんが使っているものと同じような気がしますけど……いや、絶対そうだ! そうですよね!? 夜這いしての朝帰りってことですか!?」
どうしてこの男は、肝心な時には何の役にも立たないのに、酒と女には鼻が利くのだろうか――しかも無駄に声がでかい。そばで聞いていた白蓉も、文先生の言葉の意味を理解したのか、眉間に谷間のような深いしわを刻んで獅伯を睨みつけた。
「獅伯さまって、そういうかただったんですねぇ……」
「は!? なっ、何だよ、おい? おれのことをどういう人間だと思ってたのか知らないけど、何を勝手に幻滅して勝手に怒ってるんだ?」
「否定はしないんですね、獅伯さん?」
「いや……その、実はゆうべ、おれは恐るべき敵と人知れず戦ってだな」
「嘘までつくんですか!?」
「だから嘘じゃないって、戦ったのは本当!」
泣きそうな顔でわめく白蓉にいい返し、獅伯はうんざり顔を隠そうともせずに肩をすくめた。
「……本当だって。夜中にやかましい音がしたのは聞いてたんだろ、あんたらも? あれは相手の大男の雄叫びだよ」
「判りましたよ、ひとまずそこは信用しましょう。なぜそんな事態になったのかも、あとでちゃんと聞かせてもらいます」
小さく咳払いをした文先生が、獅伯の肩に手を回し、部屋の隅のほうへと引っ張っていった。
「……それはそれとして、青霞さんのところへ夜這いに行ったのも事実なんですか?」
「はぁ? あのね、この際それは――」
思わず声を荒げかけたところで、獅伯は下の客間の前に誰かが来ていることに気づいた。足音からすると、ひとりふたりではない。
獅伯は先生の顔の前でてのひらをひろげ、シャジャルににいった。
「下に誰か来た。布団をかぶって寝たふりしてろ」
そう告げた時には、もうシャジャルは寝台に横になっていた。勘のいい娘である。白蓉に手振りだけでここに残るように指示し、獅伯は先生を連れて階段を下りていった。
「おはようございます、お客さま。朝早くから失礼いたします」
やってきていたのはさっき別れたばかりのはずの青霞と、その弟に当たる、青霞がいうところの徳甲という名の猫背の男だった。その後ろには朝食を運んできた女たちがつきしたがっている。
「昨夜は上の弟が無礼をはたらき、まことに申し訳ございませんでした。これがお詫びになるかは判りませんけど……」
そういって青霞が運び込ませた料理は、きのうの夕食よりも豪華で品数も多かった。獅伯からすれば、すでにたっぷり詫びでもらっているつもりなのだが、くれるものならもらっておこうとも思う。特に、酒甕がいくつも運び込まれたのには文先生も喜んでいるようだった。
「――それともうひとつ、隣の
「あー……まあ、うん」
獅伯と徳雄がやり合った時に、おそらく派手に瓦を踏み割ったり投げつけたりしたせいだろう。苦笑いする獅伯に意味ありげに微笑みかけた青霞は、慇懃に一礼し、弟たちといっしょに帰っていった。
窓から青霞たちを見送り、文先生はいった。
「弟がどうのって、どういうことです?」
「いったろ? おれがゆうべやり合ったのがあの女の弟なんだよ。――ちなみにさっきいっしょに来てた猫背の男が下の弟だそうだ。上が徳雄で下が徳甲っていったかな? ここの用心棒をふたりで束ねてるんだとさ」
「どうしてまたそんなことに……?」
「夜中にちょっとね。――まあ、まずはメシが先だろ」
卓の上には料理といっしょに薬湯も用意されている。獅伯は上の階の白蓉たちに声をかけ、さっそく酒甕の封を開けた。
「ゆうべのお料理もおいしかったけど、けさのはもっとおいしいねえ」
「……うん。うまい」
薬湯と栄養のある食事が効いたのか、初めて出会った夜とくらべると、シャジャルの声にも力強さが感じられるようになった。食欲もかなりあるようで、隣に座った白蓉は、獅伯や文先生そっちのけでせっせと世話を焼いている。白蓉にしてみれば、シャジャルが妹のように思えるのかもしれない。
「何がどういうことなのかよく判りませんが、ありがたい話ですね。きのうの酒よりもさらにいい酒ですよ、これは」
「あんまり飲みすぎるなよ? 酔い潰れて夜まで寝てるとかなしだからな?」
「そうですよう、先生がここで潰れたら、獅伯さんに寝台まで運んでもらわなきゃいけないんですからあ」
そう応じた白蓉は、しかし、ふと獅伯と目が合うと、すぐにむっとしたように頬をふくらませてそっぽを向いてしまった。
「……は?」
いつまでも不機嫌そうにしている白蓉の態度が理解できず、獅伯は首をかしげた。
食事をすませたあと、シャジャルをかかえて三階まで運んだ獅伯は、さらに今度は先生に肩を貸して二階へ上がった。
「やれやれ……いってるそばからこれだ」
「別に私は、あー……あれですよ、潰れるほどは飲んでいません、ええ」
「実際に潰れかけてるだろ。自覚ないのか? ……ほら、お茶」
寝台に腰を下ろした先生の手に冷たい茶を満たした碗を持たせ、獅伯は大仰に溜息をついた。
「あんた、そんな調子でいざって時に咄嗟にうまく演技できるのか? あんたは江州の金持ちの長男で、臨安まで旅をしている途中なんだぞ? そのことを忘れてぼろを出したりするなよ?」
「判ってます、判ってますよ……そもそもそれは、私が考えたことですからねえ」
立て続けに三杯も茉莉花茶を飲ませれば、先生の酔いもじきに冷めるだろう。獅伯は椅子に腰を下ろし、そっと天井を指差して先生に尋ねた。
「――なあ先生」
「何です?」
「あいつはどうしてあんなに不機嫌なんだ?」
くつろげた襟もとに団扇でゆるゆると風を送り込んでいた先生は、獅伯の問いを聞いて赤い顔をしかめた。
「……獅伯さんは私に、書物以外のものにも目を向けろといいましたけど、そういうあなたも人のことはいえませんよ? 何というか、あー……向きこそ違うが、あれだ、五十歩百歩です、五十歩百歩」
「何のことだよ?」
「鈍いのはおたがいさまってことです。……いや、むしろ獅伯さんはわたしよりよっぽどひどい」
「おいおい」
「興味をそそられることが目の前にあると、それ以外のものはとんと目に入らなくなる自分の欠点だって、私はちゃんと判っているんですよ。……向学心があるのはいいけど、まずは他人への配慮を第一に考えてと、たびたび妻に指摘されてきましたからね。判ってるんです、私は。うん」
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