第三章 水なめらかにして凝脂を洗う ~第四節~
「街から遠いこんなところに宿を構えておりますと、何かあったとしても、お役人さまにすぐに駆けつけてもらうというわけにはまいりませんでしょう? ですから、いざという時には、わたしどものほうでお客さまをお守りしなければなりませんの」
「あー……ここに泊まる客はお金持ちが多そうだしねえ」
両手の動きに合わせて、青霞の乳房が目の前で揺れている。それを見て自分が抑えられなくなるほど獅伯は克己心がない人間ではないが、かといって何も感じないほど幼くもなければ不能でもない。むしろ正常で健康な男だという自覚はある。
「ええ、ですから弟たちには用心棒たちを束ねさせ、日頃から目を光らせておりますの」「そんなにたくさん用心棒がいるわけ? ぜんぜん見かけなかったけど」
「ふだんはお客さまの目に留まらないように気をつけさせているだけですわ。お目汚しになりますもの」
「ふーん……じゃあ徳雄さんも、ちょっと仕事熱心すぎただけなのかな?」
「そうおっしゃっていただけると助かりますわ」
「じゃあそういうことにしとこうか」
徳雄に一方的に追い回され、大怪我こそしなかったものの、あちこちぶつけて打ち身ができたのは事実だった。ただ、獅伯はそれをことさら大事にする気はないし、おそらく春霞も、この特別待遇で、身内のやらかした無作法をなかったことにしたいと望んでいるのだろう。
それでも、獅伯は一応聞いてみることにした。
「ねえ」
そっと下からささえるように白く艶やかな青霞の乳房に触れ、獅伯は上目遣いに女の顔色を窺った。
「……おれは見栄を張らない人間だから馬鹿正直に聞くけど、あとから宿代に上乗せしたりしない?」
「何をでしょう?」
青霞は気にしたふうもなく平然と笑っている。悪戯っぽく細められた瞳の奥で、獅伯が初めてこの女を見た時に感じたような、淫蕩な情念がよりいきおいを増して燃え盛っているようだった。
「……お客さまのお好きなようになさいませ。わたしも先ほどから好きなようにやらせていただいておりますわ」
「まあ、あんたからすればおれなんかまだまだ餓鬼なんだろうけどさ」
ひとまずお許しが出たのだと解釈し、獅伯は青霞の腰に腕を回して抱き寄せると、その胸の谷間に顔をうずめた。
☆
顔面に包帯を巻いた兄が、大きな寝台をひとりで占拠していびきをかいている。
「…………」
「んごっ……」
徳雄はそれでも目を覚ますことなく、だが、耳障りないびきはそれで止まった。図体がでかいぶん、この兄は食う量も多ければいびきも大きく、そのくせ知恵は回らない。子供の頃から賢い姉のいうがままに動いてきたせいで、自発的に行動するということを知らないのかもしれない。
徳甲は静かに嘆息し、あらためて配下の話に耳を傾けた。
「……それで、例の娘を連れ去られておめおめと戻ってきたわけか?」
「へ、へい」
徳甲の前で床にひざまずいていた男は、胸を押さえてときおり咳き込んでいる。昨夜、大事な仕事の最中に横槍を入れられ、手傷を負ったのだというが、それがどこまで本当かは疑わしい。
「その相手というのはどんな連中だ?」
「剣を背負った小僧と、書生風の男に、やたら身の軽い小娘の三人組でして――」
「……何?」
その風体に覚えのあった徳甲は、思わず驚きの声をあげて眉根を寄せた。
「ど、どうなさったんで?」
「……その三人にしてやられ、くだんの娘と馬車まで奪われた、と? そのせいでこれほど帰りが遅くなったといいたいのか?」
「申し開きのしようもありやせん……」
「だが、その三人と連れ去られた娘、合わせて四人か……いろいろと符合はする。だとすれば、完全に運に見放されたわけでもないわけか」
「……は?」
「何でもない。――ところで今のおまえの話だと、剣を持っていたのは若者ひとりだけだったようだが?」
「ああ……そ、それが、あの若いのがとにかく腕が立つ野郎でして……」
自分たちの落ち度を少しでも減らしたいのか、男はさかんに相手の強さを繰り返した。ただ、いかにそれを強調したところで、得物を振り回すのだけが取り柄の男五人が、たったひとりの若者にこっぴどく叩きのめされた事実は変わらない。しかも、今まともにしゃべれるのはこの男だけで、ほかの四人はいまだに自力で立てずに唸っているのだという。
「おまえらよりも大人数で仕事に向かって、それきり戻ってこない連中もいるが……ここへ来て急に雲行きが怪しくなったな」
椅子に腰かけたまま、爪先だけを動かして床を規則正しく叩いていた徳甲は、ふとその動きを止めて顔を上げた。
「……いずれにしろ、姉上の判断を仰がねばならんが」
「だ、大丈夫ですかね?」
「何がだ?」
「いえね、その……俺ら、
「ああ……無用の心配だな」
ふたたびいびきが大きくなってきた兄をさっきと同じように静かにさせた徳甲は、そのまま剣を振り上げ、鞘だけを天井に向けて飛ばした。
「……姉上がどうのという以前に、もう俺の怒りを買っている」
「え」
抜き身の剣の切っ先を男ののどに突き込み、一撃で即死させた徳甲は、落ちてきた鞘を掴んで立ち上がった。
「……んが? 何が……あったのが?」
寝ぼけまなこで身を起こそうとする兄に、徳甲はこともなげにいった。
「いや、何でもない」
「おぉん……」
「……兄貴がやり合ったのがその小僧だというなら、あの娘は羽仙閣の四人目の客ということになるな」
すぐにまた眠りに落ちた兄を残し、徳甲はたった今できたばかりの死体を引きずって部屋を出た。
☆
真新しい衣に着替え、真新しい靴を履いて、獅伯は窓を開けた。小さな鈴のついた珊瑚の簪を静かに揺らしながら、黎明の風に目を細める。
きのうと違ってけさの空には雲もなく、川面に立つ靄も薄い。きょうはよく晴れそうだった。
「獅伯さま」
あくびを噛み殺して窓から外に出ようとする獅伯に、鏡台に向かって化粧をしていた青霞が声をかけた。ゆうべ入浴中に乱入した時にはお客さまと呼ばれていたのが、ほんの数刻でずいぶん親しげになったものである。
「――臨安へはいつお発ちに?」
「それはおれが決めることじゃないからなあ」
「お兄さま次第ということですの?」
「まあね」
本当なら、シャジャルの体調さえよくなればすぐにでも出立したかった。きのう一日すごしただけではっきりしたが、獅伯たちが持つ路銀の残りでは、もはやここに三日と滞在はできないだろう。
鏡越しの視線を感じて振り返ると、女の唇の赤さが目についた。
「――あ、そういやこれ」
青霞の背後に歩み寄り、珊瑚の簪を髪に差そうとすると、青霞はゆっくりとかぶりを振った。
「それはまた次の夜に――」
「返しにこいって?」
「ここにらっしゃる間は、いついらしてくださってもかまいませんわよ?」
「ありがたくて涙が出るね。……あんたがほかの男にもそういってるんだと考えると、ちょっと微妙な気分になるけど」
獅伯が大袈裟に肩をすくめると、春霞は白いのどをさらして笑った。
するりと窓から抜け出した獅伯は、春霞の部屋の露台からいくつもの離れを経由し、羽仙閣の屋根の上へと移動した。
「……もうひと眠りしたいとこだな」
あくび交じりにひとりごち、二階の窓から寝室の中に入ると、文先生の姿がない。上の階に人の気配があるので階段を登っていくと、文先生と
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