第三章 水なめらかにして凝脂を洗う ~第三節~

「ってぇ……頑丈だな、おい!?」

 すかさず男の顔面を蹴って間合いを広げようとしたが、大男は鼻血を噴き出しながらもひるむことなく、板斧を振るってきた。

「ぐ――」

 剣をかざしてその一撃を受けた獅伯の身体が宙を舞った。まるで暴れ馬にでもぶつかられたかのような衝撃に、獅伯の表情がゆがむ。

「あ、あんまり調子に乗るなよ、この野郎……!」

 屋根から落ちるのをどうにかまぬがれた獅伯は、手の先に触れた瓦を掴み、追いすがってくる大男に向けて投げつけた。

「おおおん!」

 大男はいっさい避けようともせず、飛んできた瓦を平然と額で受け止めた。

「だ、だから痛くないのかよ、おまえは!? 血が出てるんだぞ!? ちょっと落ち着いて鼻血ぐらいふけよ、なあ?」

「ううっ、うるぜえ!」

 大男は獅伯の呼びかけを無視し、またもや板斧を振り回して肉薄してきた。

「だからさあ――」

「ねーぢゃんの、宿で悪さはゆるざねえ! じんじまえええ!」

「ねっ……ねえちゃん!? おまえ、あの女主人の弟なわけ、まさか!?」

 唸りをあげる斧の刃をそれ以上に速く走る剣の切っ先で逸らしながら、獅伯は少しずつ後ろに下がった。あれこれとなだめようとしているのに、獅伯の言葉は大男の耳にはまったく入っていないらしい。

「くそ……!」

 獅伯が本気を出せば、この大男を斬り捨てるのはそう難しくないだろう。確かにこの大男は常人離れした膂力と体躯の持ち主だが、幸か不幸か頭が足りない。いい換えるなら技がない。この大男を倒すのは、獰猛な虎や熊を退治するようなものだった。

 しかし、宿の女主人の弟となると、やはり手は出しにくい。

「……いい加減にないと、本気で――」

 軒先まで追い詰められた獅伯は、肩越しに背後をちらりと確認し、さっきよりも高い青風楼の六階の露台へ一気に飛んだ。

 想定外だったのは、なおも大男が追いかけてきたことだった。

「んどらっ! にんっ、逃がざねえぞっ!」

「おい!?」

 手摺の上に器用に着地した獅伯の眼前に、大男が板斧を振りかざして迫ってきた。

「っ……!」

 あやういところで板斧をかわした獅伯は、大男の巨体に跳ね飛ばされ、格子窓を突き破って屋内に突っ込んだ。

「きゃあっ!?」

「ひっ!」

 耳障りな破壊音に女たちの悲鳴が交じる。視界の中をあざやかな色彩が横切り、次の瞬間、獅伯は熱い湯の中に背中から落ちた。

「っぶぁ!?」

 慌てて湯の中から顔を出し、前髪をかき上げた獅伯は、大きく深呼吸をしながらあたりを見回した。

 さほど広くない部屋の隅では、小間使いの娘たちが三人、身を寄せ合い、獅伯を凝視して震えていた。その周りには窓の破片と手桶が転がっている。それを見てようやく獅伯は、あたりに白い湯気が満ちるこの部屋が何なのかに気づいた。

「あー……」

 ゆっくりと振り返ると、すぐ目の前にせいがいた。

「思いのほか……大胆でいらっしゃいますのね、お客さま?」

 怒った様子もなくそう告げた青霞は、湯が満たされた大きな桶の縁に手をかけて笑っている。もちろん何も着ていない。

「大胆ていうか……その、おれは悪くない」

 衣を着たまま同じ桶の中でしばし青霞と向かい合っていた獅伯は、ここで何といったらいいか判らず、波紋の下で揺れる女主人の肢体を一瞥したあと、とりあえず湯から上がろうと彼女に背を向けた。

 その時、また女たちが悲鳴をあげた。

「あででで……」

 あの大男が、頭を振りながら、開いたままの窓から無理矢理室内に入ってこようとしていた。

「ね、ねーぢゃん、無事か……?」

「!」

とくゆう……おまえは賊とお客さまの区別もつかないの?」

 思わず身構えようとした獅伯の身体が、背後から伸びてきた白い腕に絡め取られ、ふたたび湯桶の中に尻餅をついた。

「は? ちょ、あんた――」

「ぬがっ!? でめ……どうじでねーぢゃんと風呂に入ってんだぁ!?」

「あんたのせいだろ……」

 せまい窓からどうにか中へ入ろうと大男が力むたびに、窓枠どころか壁までがみしみしと嫌な音を立て始めた。

「徳雄」

 獅伯を後ろから抱きかかえた恰好のまま、青霞が冷ややかにいった。

「こちらの若さまは、朝一番にこうしゅうから到着なさったばかりのお客さま……何を勘違いしているのか知らないけど、無礼よ、おまえ?」

「あえ? ……お、ぎゃく?」

「判ったらもう行きなさい。お客さまにはわたしのほうからお詫びしておくから」

「で、でも……」

 鬼気迫るいきおいで獅伯を追い詰めようとしていた大男が、青霞の言葉を受けて今にも泣きそうな顔になっていた。どうやらこの大男――徳雄にとっては、青霞は絶対に逆らえない相手らしい。

「……わ、わがった……」

 涙と鼻血で汚れた顔を大きな手でぬぐい、徳甲は窓枠から身体を引き抜き、すごすごと去っていった。

「おまえたち」

 続いて青霞は、ようやく落ち着きを見せ始めた女たちに向けて軽く手を振り、

「ここはもういいわ。わたしが呼ぶまで下がっていなさい。お客さまのお着替えを用意しておくのを忘れないようにね?」

「は、はい」

 女たちは青霞と獅伯に向かって一礼し、こちらもそそくさと部屋から出ていった。

「それじゃおれも――」

 その流れでふたたび桶から出ようとした獅伯を、もう一度青霞が引き戻す。

「まだいいじゃございませんの。どうせもうびしょ濡れですし、ゆっくりなさっていったら?」

「いや、まあそうなんだけどさ」

 獅伯は溜息をつくと、開き直って衣を脱ぎ始めた。青霞のほうを向いて目の前に足を上げると、青霞も察したように、獅伯の靴を脱がせて桶の外に放り投げる。

「……それにしてもぜんぜん似てないね、弟さん」

「ええ。よくいわれますわ」

「っていうか、宿の子たちまで怯えるってさ……これまでに間違って何人かあの世に送っちゃったりしてるんじゃないの? おれ、夜風に当たってただけで盗人呼ばわりされて襲われたんだけど?」

 黒ずくめの妙な動きに気づいたことがそもそもの始まりだったが、それをいえばまた別の面倒ごとに巻き込まれる恐れがある。だから獅伯はそこには触れず、髪を結っていた飾り紐をほどいた。

「かさねがさね申し訳ございません。弟にはよくいって聞かせますので、きょうのところはどうかご容赦くださいませ」

「いって聞かせて覚えてくれるとも思えないけど……」

 獅伯は苦笑し、難儀しながら脱いだ衣をべしょっと投げ出した。

「あら……」

「何?」

「徳雄に追い回されて怪我もせずにすんだ理由が判りましたわ。お客さま、きっとお強いのでしょうね」

 獅伯の身体にのしかかるように迫ってきた青霞が、肩口や胸に残る無数の傷跡を指でなぞる。どうにも意味ありげな、いろいろとむずむずしてくる触れ方だった。

「……まあ、強いか弱いかでいえばかなり強いね。何しろいまだに一度も斬り殺されたことがないからさ、おれは」

 剣だけは自分の手が届く場所に立てかけておき、獅伯は顔を洗った。

 思えばせきじょうをあとにして以来、せいぜい川で沐浴する程度で、こうして熱い風呂に入るのは久しぶりだった。澱のように溜まった疲れが湯の中に溶け出していく気がする。垢も落とさずに寝ている文先生たちに対する後ろめたさすらも、こうしているだけであっという間に雲散霧消した。

「弟たちもそれなりの腕の持ち主になったと思っておりましたけど、おそらくお客さまのほうが一枚上手でございますね」

「弟たちってことは……ああ、出迎えの時にいた、猫背の人も弟さん?」

「はい。下の弟でとくこうと申します」

 桶の縁に頭を預けてだらんと身体を伸ばすと、青霞はますます調子に乗って獅伯にまたがってきた。何もいわないのに獅伯の頭に両手を伸ばし、爪が長く伸びた指で器用に髪を洗ってくれる。

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