第三章 水なめらかにして凝脂を洗う ~第二節~


          ☆


 それが性分といえばそれまでだが、疲労とは裏腹に、夜半に目が覚めてしまった。

「…………」

 隣で呑気な寝息を立てているぶん先生を残し、はくは静かに寝台を出た。

 細く開いた窓からは、やわらかな夜風が流れ込んできている。周囲を川の流れに囲まれているからか、夏の蒸し暑さと縁遠い冷ややかな風だった。

 その川の流れる音に交じって、断続的に鳥の鳴く声が聞こえた。

 ただ、その鳴き声が不自然な気がする。枕の下に隠していた剣を背負い、天蓋から垂れていた紺色の布を引き剝がすと、獅伯はそれを頭からかぶって露台に出た。

 雲が多く、月明かりも星明かりも少ない夜だった。身を隠すには都合がいい。獅伯は音もなく羽仙閣の屋根の上に登ると、低く身を伏せたままあたりを見回した。

 その時、また鳥の鳴き声がした。

「……?」

 声のしたほうに視線を向けると、けい殿でんの屋根の上に、今の獅伯と同じく誰かが身を伏せているのが見えた。ただ、向こうはまだ獅伯に気づいていない。全身黒ずくめで、どうやら左手に弓を持っているようだった。

「何だ……?」

 目を凝らしている獅伯の視界の隅で、何かが光った。

 暗い川の上を、一艘の小舟がやってくる。その舟に乗る何者かが提灯を軽く振ったのが判った。そして今度は、その舟のほうから鳥の声。よく聞いてみれば、それは本物の鳥のさえずりではなく、何かしらの笛の音のようだった。

「……何かの合図だな、あれは」

 意味ありげな提灯の動きといい、交互に聞こえてくる鳥の声に似せた笛の音といい、誰かがこの夜更けに連絡を取ろうとしているのは明らかだった。

 やがて、屋根の上の黒ずくめが身を起こし、弓を大きく引き絞るのが判った。

「へえ……」

 ひゅん……っとすぐに消え入る矢羽根の音ともに、黒ずくめが放った矢は闇の向こうへ消えていった。おそらく今の矢は舟に向けて放たれたものなのだろう。するとすぐに今度は、舟のほうから似たようなかすかな音が聞こえた。

「……矢文でやり取りしてんのか」

 すでに獅伯には、あの黒ずくめの正体がうすうす判っていた。昼間見た夫婦の奥方のほうだろう。あの恰幅のいい夫なら、たとえ全身黒ずくめでも腹回りですぐにそれと判る。夫でないなら――そしてあの夫婦がこっそり第三の人間をかくまっていないかぎり――あとは妻しかいない。

 黒ずくめはしばらく屋根の上で何やらやっていたが、すぐに屋根から飛び降り、橋の上をひたひたと走って青風楼のほうへ走っていった。

「真夜中に元気だね、おい?」

 あらためて考えてみると、青風楼は少し不自然な作りになっていた。舟で中州にやってきた客は、桟橋から勾配のついた長い橋を渡って、いきなり青風楼の三層目に入るようになっているのである。周囲の離れに通じる橋や回廊も、すべてこの三層目から八方に伸びている一方で、その下の、窓も出入り口もない二階と一階に何があるのかはよく判らない。

 黒ずくめはあたりを警戒しながら青風楼に近づくと、橋の下に飛び降り、その一層目の周囲を歩き始めた。

「……何やってんだ?」

 少し離れたところにある橋の上に身を伏せ、獅伯は黒ずくめの動きに注視した。

 黒ずくめは壁に耳を当てたり、こつこつと拳で叩いたりしている。どうも壁の向こう側の構造を探っているようだった。

「盗み……じゃないか」

 もし黒ずくめが何かを盗もうと考えて青風楼まで来たのだとすれば、あんなところを調べて回るより、もっと上の階の窓をこじ開けて中に入るほうが手っ取り早い。だが、あえて窓も扉もない一番下の階層を調べているということは、黒ずくめの目的は単純な盗みではないのだろう。

 その後、黒ずくめはしばらく青風楼の周囲を調べたあと、桂花殿へ戻っていった。

「結局……何だったんだ、あれは?」

 最後まで気づかれることのないまま黒ずくめを見送った獅伯は、さっきまで黒ずくめがいた橋の下に下りると、同じように石組みの壁に耳を押し当てた。

「……?」

 川の流れる音にまぎれて聞き取りにくいが、拳で叩くとかすかな反響音がする。獅伯はてっきり、一、二層目は単なる土台で、三層目が実質的な一階に当たるのかと思っていたが、この石壁の向こうにはかなり広い空間があるようだった。

「これを調べてたってことか? にしても……何者なんだ、あの奥方?」

 女だてらに武術をやっている人間はそう珍しくはないし、別に獅伯もそういう女に興味があるわけではない。ただ、同じ宿に泊まっている客が妙な動きをしているのは気になる。ことによっては獅伯の平穏を騒がせることになりかねないからである。

 しかし、いつも獅伯が願っている平穏無事な日々は、彼が考えていた以上に早く、あっけなく崩れ去った。

「!」

 夜風のわずかな乱れに気づいた獅伯は、砂がちの地面を橋の欄干まで飛び上がり、そこからさらに青風楼の四層目の露台へと一気に移動した。

「でめえ、ど、どごの命知らずだ……? ごごに盗みに入るなんで、おお、おらを、ばがにじでんのが……?」

 静かな夜に聞き苦しくくぐもった声を投げつけてきたのは、いつの間にか橋の上で仁王立ちしていた大男だった。獅伯よりも頭ふたつほど上背がある上に、首から肩、二の腕にかけての筋肉の盛り上がりが尋常ではない。

 大きな円弧を描いて戻ってきた板斧を器用に左手で受け止め、大男は喘ぐように繰り返した。

「でめえ、ばがにずんなよ……!」

「いや、ちょっと――」

「おらがいるかぎり、ごごで盗みどが、ぜっでぇに、ゆるざねえぞ……!」

「盗人じゃないって! お、おれはその、きゃ、客だって!」

「おらぁだまざれねぇ……だってでめえ、盗人のかっこうじでるだろ!」

 できるだけ目立たないようにと外套代わりにかぶっていた紺色の布が裏目に出た。おまけにこの大男はあまり頭がよくないらしい。夜半すぎ、闇に溶け込むようないでたちで青風楼の周りをうろうろしていた獅伯を見つけ、完全にここへ盗みにやってきた賊だと思い込んでいるようだった。

「……というかさ、冷静な目でくらべてみたら、おれよりあんたのほうがよっぽどじゃない?」

 そういい返してやりたいのをこらえ、獅伯はかぶっていた布を投げ捨てて背中の剣を抜いた。

「ぬらああっ!」

 ここまでの獅伯の心遣いを木っ端微塵にするような雄たけびを上げ、大男が大きく跳躍した。

「!?」

 獅伯が思っていた以上に大男は身軽だった。たとえるならそれは、人を取って食うほどに大きな猿とでもいえばいいだろうか。

「じねっ! じねえ!」

 露台に飛び移ってきた大男は、よだれを垂らしながらわめき、両手に一丁ずつ持った板斧を旋風のように振り回して叩きつけてくる。うっかり引っかけられれば大怪我は間違いないが、このいきおいと重さでは、剣で受けるのさえはばかられる。

「ま、待てって……おい!?」

 いっそ本気で相手をして斬り捨ててやるかとも思ったが、万が一この大男が青風楼の用心棒だったとしたら、のちのち面倒なことになりかねない。まずはどうにか大男を鎮めようと、獅伯は手を出すことなく斧をかわすことだけに専念した。

「よっ……!」

 獅伯は近くの離れの屋根に飛び移ったが、すぐさま大男も追いかけてきた。

「ふぬっ!」

「人の話を聞けよ、あんた――」

 真っ向から振り下ろされた板斧をかわしざま、そのこめかみに蹴りを叩き込む。が、獅伯の足に伝わってきたのは、まるで巨木の幹を思い切り蹴飛ばしたかのような痛みとしびれだった。

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