第三章 水なめらかにして凝脂を洗う ~第一節~

 宿の娘に茶の用意をさせたれいほうは、隣の部屋にいる主人を呼びにいった。

「旦那さま、お茶の用意が――」

 麗宝が途中で口を閉ざしたのは、志邦しほうが窓枠の上に顔を半分だけ覗かせ、青風楼せいふうろうの様子をじっと窺っているのを見たからである。

「……何をなさっているのですか、旦那さま?」

「もちろん青風楼の監視だよ。決まっているだろう?」

「そんなあからさまにやらないでください」

 志邦の目の前でぴしゃりと窓を閉め、麗宝は腰に手を当てて嘆息した。

「……やはり旦那さまには役所でお待ちいただくべきでした。これではわたしがお役目に専念できません」

「それはひどい。私だってやる時はやりますよ。あなどるのはやめておくれ」

 口をとがらせたのも最初だけで、志邦はすぐに柔和な笑みを取り戻して立ち上がると、恰幅のいい腹回りをぽんと叩いた。

「さて、冷めないうちにお茶をいただこうかな」

「あ、お待ちください、まずはわたしが毒見を――」

「毒見? そんなものはいらないよ」

 隣の部屋に入った志邦は、さっさと自分の手で碗に茶をそそぎ、麗宝が止める間もなくひと息に飲み干した。

「……さすがにいい茶だこと」

「旦那さま、もし毒でも入っていたらどうなさるのです?」

 志邦の様子に変わりないことを確かめて安堵の吐息をもらしつつ、麗宝は主人の無茶をたしなめた。

「いやいや、非常に合理的な考え方によるものですよ、これは」

 手ずからそそいだ茶を麗宝に差し出し、志邦は悠然と首を振った。

「たとえば、何者かがこの茶に一服盛ったとしようじゃありませんか。そこでまず私がこの茶を口にして――」

「いえ、まずわたしが毒見をしますから」

「だからたとえ話だといったでしょう? ……とにかく、私が先に茶を飲んで倒れた。さて、残されたおまえはどうする?」

「それは……もちろん、まずは敵が来る前に旦那さまをかついで、どうにかこの場から逃げ出します」

「そうだね、おまえならそうするだろう。――なら、もしおまえが先に毒見と称してこの茶を口にして倒れてしまった場合、私はどうなる? どうすればいい?」

「その場合は……」

 麗宝が考えをまとめる前に、志邦は大袈裟に肩をすくめて苦笑した。

「たぶん私はおまえを連れて逃げることもできず、ひとりで途方に暮れているところを、動けなくなったおまえもろともあっさり殺されることになりますよ。自信をもって断言できるけど、私にはおまえをかかえて逃げおおせるほどの腕力はないからね」

「……ええ、そのさまが目に浮かぶようです」

 堂々と胸を張って主張する志邦から視線を逸らし、麗宝も静かに茶をすすった。確かに志邦は武術はからっきし、剣を取って自分の身を守ることすらおぼつかない文若の徒である。だからこそ身内の中でもっとも腕の立つ麗宝が、こうしてそばに仕えて彼の護衛役を兼ねているのである。

 さらに一杯、香りのいい茶を飲んだ志邦は、軽く手招きして寝台に腰かけた。

「ところで麗宝や」

「何でしょう、旦那さま?」

「いや、そこで片膝ついてしゃがむのはよしておくれ」

「は?」

「ここでの私たちは夫婦なんですよ? 上役と部下でもあるまいに、夫と話すのに目の前にひざまずく妻がどこにいますか」

「……細かいですね。どうせ誰も見ておりませんよ?」

 とはいえ主人の命である。麗宝はあらためて志邦の隣に座り、仲睦まじい夫婦のように顔をつき合わせた。

「――それで?」

「うむ。ここではたらいている女たちからは何か聞き出すことはできたかい?」

「いえ、それがまだ……充分な心づけもわたしたのですが、当たり障りのない話しか聞けませんでした」

「……それは妙だね。彼女たちは詳しいことは何も知らないのか、それとも、本当にここには何の後ろめたいこともないのかな?」

「これはわたしの勘ですけど、あの子たちはつねに何かに怯えているようでした。思うに、客に迂闊なことをしゃべってはならないと、主人から念入りに釘を刺されているのでは?」

「ありえなくはないね。……けど、実際にことを起こすには、それなりの証拠が必要になってくる。さもなければこちらの首をすげ替えられておしまい、なんてことにもなりかねないかもしれません。あの梁青霞、おそらくだけど、宮中の高官や重臣たちとも何かしらのつながりがあるはずですからね」

「まさか……?」

「いや、そうでもなければ、あれほどの上等な茶は手に入りませんよ」

「茶? 茶がどうかしたのですか? 確かにふつうの茶とは違う独特な香りを感じましたけど……」

「あれは緑風りょくふう龍団りゅうたんという茶です」

 卓の上の茶器を指差し、志邦が説明する。

「――最上級の稀少な茶葉と異国から伝わってきた香料を原料に、宮中への献上品として作られているんです。もとから献上するものとして特別に作られた茶だから、ふつうならどんなに大金を積もうが買うことのできない茶でね」

「それをご存じということは、旦那さまは、以前にもどこかで飲んだことがおありなのですか?」

「ええ。昨年、隠居した父の供で臨安に行った折、父の旧友という役人の屋敷で一度だけ飲んだことがありましてね。その時に聞いた話では、今上の陛下は、特に功績のあったごく一部の家臣たちにだけ、この茶を下賜しておられるのだとか……」

「ということは、この宿の馴染み客の中に、そうした重臣のかたがたがいるかもしれないということになりますね」

「私はその可能性が高いと考えているんですよ。だから余計に慎重に調べを進めなければならないわけだ」

 のほほんとした苦労知らずのように見えて、志邦は洞察力にすぐれ、頭の回転も速い。その彼がこうして口に出したということは、それなりに確証を持っているということだろう。

「……そういえば、けさまた新しい客が来たようだけど?」

「はい。そちらについては話が聞けました。ちょうど向かいの羽仙閣うせんかくに、りんあんに向かう途中の四人連れが滞在することになったと」

「四人?」

「田舎の素封家そほうかの四兄弟だそうです。兄ふたりに幼い妹ふたりだとか。ほかに供の者はいないようです」

「そんな四人組なら“買い手”ではなさそうだね」

「とはいえ、素性が判らないうちは油断は禁物です」

 つねに泰然と構えていられるのは志邦の美徳のひとつといえるかもしれないが、見方を変えれば、それは危機感の欠如ともいえる。何しろ志邦は、つねづね筆より重いものは持てないとうそぶく文字通りの文若の徒なのである。彼の護衛役も兼ねている麗宝からすれば気が気ではなかった。

「……どちらにしろ、周りを川に囲まれているせいで、ここでは身動きが取りづらくて仕方ありません。思うように手がかりが得られないようなら、いったん戻ってあらためて策を練ったほうがいいのでは?」

「……次に連絡を取るのはきょうの夜半すぎだったかな?」

「はい」

「それでちゅうけんたちのほうに何か進展があればいいのだけどねえ」

「正直、あの兄がそこまで役に立つとは考えられませんが」

「おまえは忠賢に厳しすぎやしないかい? あれは十二分に優秀な男ですよ」

「そうでしょうか?」

「剣の腕がすべてではないということさ。……さて、それじゃ私は忠賢への書状でも書くとしましょうか」

 志邦はそう笑って、茶といっしょに届けられた蜂蜜菓子に手を伸ばした。

「あ」

 無論、そちらもまだ毒見はしていない。しかし志邦はためらうことなく菓子を口に放り込み、うまそうに茶で流した。

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